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上部のロゴは、ウエルパパスの「いま学校はワヤだがや」のものである。無断ではあるが引用させてもらいました。
コ ン テ ン ツ
さて、リニューアルをはたして、ウエルぱぱすも、はや1年がたつ。一般にフリーペーパーは、さぁっと読まれて(あるいはまったく読まれず)広告などと一緒にビニールテープで巻かれて、ごみもしくは再生紙として放棄される運命にある。まあ、もともとそういうもんでしょう。
しかしぃ!!「ウエルぱぱす」そういう扱いを受けない稀少なフリーペーパーなのだ。ちなみに読者の声を読んで欲しい。「リニューアルしてかつての著者が復活した、スクラップにして残していきたい」という意見が何件か見られる。まあついでに「子どもたちと読みまわしている」という意見や教員、保護者、公務員など市民サービスに関わっている人の意見も多い。
ところで今、公務員は不景気のためバッシングの対象となっている。平成21年4月の名古屋市長となった河村などは、市民税を10%減にしてその代わり公務員の給与を削減するといっている。しかし、よく考えれば、10%減の税収に対して、公務員の給料削減ぐらいで税収不足は補えるのか? バランスシートはまったく均衡しないだろう。
それに、公務員批判は、上の方の悪事をことさら大きく取り上げ、末端の公務員の奮闘努力は無視して、結局、強大な権力を持つ上層部はそのまま温存され(表面上は給料削減もあるが、権益は保持されるので金は入ってくる)、末端公務員いびりをやって一般大衆の人気を得ようとしているように思える。
しかし、税収10%減は確実に公的サービスの低下につながるだろう。公務員末端とは、ごみ収集や公園管理、上下水道管理者などの業務、警察官、教師、保健所、火葬場、市・区役所厚生窓口、市営病院看護士、医者、消防、市バス、地下鉄などのインフラ従事者などなど、市民生活を底辺から支えている人たちだ。教育、安全、衛生、医療、移動、悪質業者監視などの仕事が人手不足になり、そのサービスがいきわたらなくなるのだ。
税収減とは、現状の公務員の給料が減るだけではない、要するに人員を削減するということだ。例えば一人の警官が1000世帯ぐらいを事件監視対象としていたものが5000世帯ぐらいに広がるということだ。夜中に不審者が侵入したとして、おまわりさんはすぐに来てくれるだろうか?風邪を引いて市民病院へ行ったら、何時間も待たされて、診療三分などということはないだろうか。そもそも、市民病院は経営できるのか?
学校も同じだ。教員採用試験で競争率3倍を下回ると、着実に教員の質は低下するといわれる。つまり、優秀な人材は給与額のある線を境に、つまり安い給料であるならば、教員にはならずほかの企業に流れるということだ。確かに不況ではあるが、大手の採用状況を見れば、優秀な人材の採用・確保は着実に進められている。
公務員末端の財政カットはもろに市民生活の悪化につながる。また、安定した公務員生活が保障されなくなると、いわゆる、公務員のモラルハザードが、多発することになるだろう。社会主義国家の公務員賄賂ブラックエコノミーがその良い例である。この体勢が公務員末端まで行き渡ると、いくら、道徳論や精神論で叱咤激励しても効力はなくなるのだ。
私はそんな社会はご免被りたい。先生は優秀でいて欲しいし、おまわりさんはいつも市民の安全を見守っていいただきたい。公園のトイレはいつも清潔で、蛇口をひねればきれいな飲める水がでてほしい。ごみももってって欲しいし、下水道が詰まったらすぐなおして欲しい。
そのためならば、税金は払っていきたい。ただし、上層部権力者の金になったり、意味のないハコものや道路に消えるのはごめんだ。その辺の意見が反映される政治であって欲しい。
さて、ウエルパパスの「いま学校はワヤだがや」の記事である。この記事は、末端公務員である体育教師の本音トークである。時には賛同し、また反発もあるだろう。教員としてけしからん!!など。 しかし、せんせいという、えばった存在ではなく、その辺にいるオヤジの本音が語られているところが実におもしろいと思う。
私はあるルートからこの谷川先生の元原稿を入手することができた。だいたい原稿というのは多めに書かれておりそれが編集部において削減・検閲にあって不適切な表現や事実誤認的内容が修正されて紙面に出されるのである。紙面の前の元原稿がここで公開されるということは谷川先生の本音トークのエッセンスがかなり見え隠れすることになる。もちろん、事実誤認や不適切な表現もてんこ盛りとなる。
逆に言うとそれが面白いのである。ウエルぱぱすファンである私は、多少マニアックというかオタクっぽいというか、まあ、ファンですからこういう原本は貴重な資料となるのである。それで、以下に入手した原本を載せていきたいと思う。もちろん、谷川先生には許可を頂いていることは言うまでもない。
2008年4月 新クラス 谷川 篤
オレは某中学校の体育教師だ。編集者の意向によりゾンビのごとく蘇ることになった。細かい事情はよくわからんが、まあいいだろう。
ところで、新学期である。新しいクラスだ。親子共々「あたりクラス」だの「はずれクラス」だのと悲喜こもごもであろう。「どうしてこんなクラスになるわけ!?」と困惑する保護者も多かろう。特に中学1年生のクラスに関してそう感じることが多いのではないか?
まあ、そうなっちゃう理由ははっきりしている。完全なる情報不足である。小学校と中学校は場所・校舎・システム・教員などとにかくすべて違うのだ。まったく違う世界だと思って欲しい。だから、たとえば小中の生徒や親に関する情報交換はするが、はっきり言ってまったく当てにならない。
さらに、中学校には2〜3の小学校が集まってくる。すると、時には3つの小学校の超悪ガキが中学校で1つのクラスにまとまることも起こりうる。小中で情報交換をしたはずなのにそうなるのである。
理由はいくつかあるが、第1に考えられるのは生徒のイメージに対する小中教師の感じ方の温度差とでもいえるものだ。小学校では超極悪人であったものが中学校ではたいしたことのない生徒であったり、まともと思われた生徒がじつは「トンデモワルガキ」だったりする。
ふたつめは、小学教師の情報の出し惜しみもある。どうせいなくなる悪ガキである。悪いことを伝えるということはそのまま、自分の指導力のなさ、6年間の教育の失敗を露呈することになる、と考える。まあ、教師のプライドですな。
あるいは、情報交換のときに「一緒にしないで欲しい」などの親からの要望を聞いてクラスを別にしても、他の小学校のより性質の悪い生徒と一緒になることもある。
さらにはクラス編成をする側の中学校教師にも原因がある。まず、新中学1年のクラス編成をするのは中学3年の教師たちである。悪ガキたちを卒業させて、心身ともにへばっている。なかには、他の学校へ転任する人もいる。新しい人事がどうなるかもわからない。つまり必ずしも中3から中1に降りるとは限らないのである。どこか他人事のような雰囲気をかもし出しながら学級編成をしちゃうのである。
また先にあげたように情報も不正確で生徒たちを把握していない。それゆえクラス編成は、大雑把、適当、やっつけ、という場合も起こりうる。
相当ひどい状態の小学校の場合であれば、かなり時間をかけることもあるがそれも限界がある。まあ、結果的には完全なるギャンブルの状態でクラス編成をしちゃうのが中1だと思ってよいでしょう。
ところでこれが中2になると、まあ可もなく不可もなく「こんなもんでしょう」という結果になる。しかし、転任などの大幅な人事移動があったり、転出生徒が多く学級減になったりしたら地獄の苦しみを味わうようなこともある。
3年生は進路があるので、成績などにおいて同質クラスを一応考える。教師の人事も進路向けに強化されることが多い。
だから中2とは編成方法が多少違ってくるが、生徒のほうも大きく変貌するのでアタリハズレが起こる場合もある。しかし、新クラスのトラブルは想定範囲内にはなっている。
オレは過去に何度か中1のはずれクラスの担任に当たったことがあるが、そのなかでも極めつけのトンデモクラスの担任をしたときは参った。オレは思い悩んで酒に浸り、かあちゃんの足元にすがり付いて「頼むから、主婦(夫)業を交代してくれ、家事、育児全部やる。修学旅行の細案より緻密な家事・育児・近所お付き合い細案を立てますから、お願いします」と懇願したのだ。すると、かあちゃんからは「何をとろくさいこといっとる」と一喝された。オレは名古屋出身ではないが、かあちゃんは生粋の名古屋人である。この名古屋弁でやられるとなぜか「ムカッ」とするのであるが、結局オレの淡い「たわけた」要求はこの名古屋弁の元に粉砕されたのである。
2008年5月 ファイトォ 谷川
オレは某中学校体育教師だ。先日、生徒の同窓会に参加した。オレは元来、この手の同窓会は苦手なので関わらないようにしてきた。しかし、今回は欠席のはがきを出し忘れ、幹事が直接職場に連絡を入れてきたのだ。のっけから「ぜひ参加してください」と説得されて、イエスと答えてしまった。
参加を了承した理由は、オレが新卒時の学年全体会であったということ。つまり25年以上まえの、現在40歳にならんとする年代の同窓会であったからだ。彼らに子どもがいたら、ちょうど中学生か高校生になっている。まあ、オレの失態も許されるだろうと思った。
またその当時の同僚教師が何人か参加しているとのことで、懐かしさもあった。
それに電話をしてきた幹事が忘れもしない、新卒のオレをてこずらせた女の子で、それがどうなったか興味を持ったのだ。
参加してみると、そこには100人近くのおっさん、おばさんたちが集まっていた。予想はしていたが、当時の面影はほとんどない。名前を言われても思い出せない。特に目立たない普通の子は、町ですれ違ってもまず気がつかないだろう。
オレは一瞬背筋が冷たくなった。この地方に住んでいる限り、「やべえことはできんなぁ」と思った。エロビデオを借りたときのパートの店員が教え子かもしれない。女子だったら最悪だ。そういえば同僚で、風俗店に行ったら教え子が仕事をしていたなどという話を思い出す。
教師になるということは、1対何千という人間関係を結ぶということなのだ。しかも経験を重ねれば数はどんどん膨らむ。きっとかなりの頻度で自分が知らないうちに相手がこちらを知っていて観ている(ただ見ているだけではなく)ということがおこっているだろう。
確かにオレ自身、自分の学生時代の教師を街で目撃したことが何度かある。しかし自分が関わった教師の顔をすべて覚えているわけではない。
しかし印象に残った教師を忘れることは無い。待てよ、そうすると名物教師はかなりの確率で覚えられることになる。当時のオレはどうだったか?現在に至るまでのオレはどうだったか?当時の生徒にいまだに覚えられている存在だったのか?それって、いいこと?悪いこと?いろんなことが頭の中を駆け巡る。オレが同窓会を苦手としたのはそういう理由からだったのだ。
さて、オレが会場に入場すると、幹事がマイクでもって「谷川先生がみえましたぁ」と大ボリュームで紹介された。「うお〜」という歓声。「パチパチ」と鳴り響く拍手。握手を求めてくる人々。「僕わかります」「わたし覚えていますかぁ」という声かけ。オレは名物教師だったのか。それとも単に懐かしかっただけなのか・・よくわからん。
同窓会がはじまり、酒がすすむ。すると男連中が順繰りに寄ってくる。「谷川先生、オレですよ、悪さしてよく殴られたなぁ。」「オレもオレも、とにかく谷川先生には、拳骨、ケツ蹴り、ケツバット、ビンタ。なつかしいなぁ」そうなのだオレも、学生時代ビンタを張られた先生は覚えている。
オレは体育教師である。生活指導もやった。したがって、かなりの頻度で悪ガキをどついていた。しかし、「殴られたのは懐かしい思い出だ」とは言ってくれた。社交辞令か。まあいいだろう。本当にいやだったやつは寄ってこないだろうし、そもそも参加しないだろう。同窓会というのは現時点で幸福な人々が集まってくるのだろう。
女性も話しかけてきた。やっぱり、当時オレをてこずらせた子が多い。しかも、なぜか優等生型ワルやべっぴんワルが多かった。とにかく居心地がいいのか悪いのか分けのわからん状態である。
ただひとつ教訓として思い知ったことは、「生徒を殴っちゃイカン」ということだ。オレはそれを肝に銘じて会場を去った。
「てめぇ〜、今度やったら、ボコスコにどつくぞ!!」次の日の月曜日にオレは、授業中に弱そうなやつのズボンを下げてからかっていた悪ガキにヘッドロックをかけながら、怒鳴っていた。人間なかなか変われんなぁ。
2008年6月 同窓会 谷川
オレは某中学校体育教師だ。先日、生徒の同窓会に参加した。オレは元来、この手の同窓会は苦手なので関わらないようにしてきた。しかし、今回は欠席のはがきを出し忘れ、幹事が直接職場に連絡を入れてきたのだ。のっけから「ぜひ参加してください」と説得されて、イエスと答えてしまった。
参加を了承した理由は、オレが新卒時の学年全体会であったということ。つまり25年以上まえの、現在40歳にならんとする年代の同窓会であったからだ。彼らに子どもがいたら、ちょうど中学生か高校生になっている。まあ、オレの失態も許されるだろうと思った。
またその当時の同僚教師が何人か参加しているとのことで、懐かしさもあった。
それに電話をしてきた幹事が忘れもしない、新卒のオレをてこずらせた女の子で、それがどうなったか興味を持ったのだ。
参加してみると、そこには100人近くのおっさん、おばさんたちが集まっていた。予想はしていたが、当時の面影はほとんどない。名前を言われても思い出せない。特に目立たない普通の子は、町ですれ違ってもまず気がつかないだろう。
オレは一瞬背筋が冷たくなった。この地方に住んでいる限り、「やべえことはできんなぁ」と思った。エロビデオを借りたときのパートの店員が教え子かもしれない。女子だったら最悪だ。そういえば同僚で、風俗店に行ったら教え子が仕事をしていたなどという話を思い出す。
教師になるということは、1対何千という人間関係を結ぶということなのだ。しかも経験を重ねれば数はどんどん膨らむ。きっとかなりの頻度で自分が知らないうちに相手がこちらを知っていて観ている(ただ見ているだけではなく)ということがおこっているだろう。
確かにオレ自身、自分の学生時代の教師を街で目撃したことが何度かある。しかし自分が関わった教師の顔をすべて覚えているわけではない。
しかし印象に残った教師を忘れることは無い。待てよ、そうすると名物教師はかなりの確率で覚えられることになる。当時のオレはどうだったか?現在に至るまでのオレはどうだったか?当時の生徒にいまだに覚えられている存在だったのか?それって、いいこと?悪いこと?いろんなことが頭の中を駆け巡る。オレが同窓会を苦手としたのはそういう理由からだったのだ。
さて、オレが会場に入場すると、幹事がマイクでもって「谷川先生がみえましたぁ」と大ボリュームで紹介された。「うお〜」という歓声。「パチパチ」と鳴り響く拍手。握手を求めてくる人々。「僕わかります」「わたし覚えていますかぁ」という声かけ。オレは名物教師だったのか。それとも単に懐かしかっただけなのか・・よくわからん。
同窓会がはじまり、酒がすすむ。すると男連中が順繰りに寄ってくる。「谷川先生、オレですよ、悪さしてよく殴られたなぁ。」「オレもオレも、とにかく谷川先生には、拳骨、ケツ蹴り、ケツバット、ビンタ。なつかしいなぁ」そうなのだオレも、学生時代ビンタを張られた先生は覚えている。
オレは体育教師である。生活指導もやった。したがって、かなりの頻度で悪ガキをどついていた。しかし、「殴られたのは懐かしい思い出だ」とは言ってくれた。社交辞令か。まあいいだろう。本当にいやだったやつは寄ってこないだろうし、そもそも参加しないだろう。同窓会というのは現時点で幸福な人々が集まってくるのだろう。
女性も話しかけてきた。やっぱり、当時オレをてこずらせた子が多い。しかも、なぜか優等生型ワルやべっぴんワルが多かった。とにかく居心地がいいのか悪いのか分けのわからん状態である。
ただひとつ教訓として思い知ったことは、「生徒を殴っちゃイカン」ということだ。オレはそれを肝に銘じて会場を去った。
「てめぇ〜、今度やったら、ボコスコにどつくぞ!!」次の日の月曜日にオレは、授業中に弱そうなやつのズボンを下げてからかっていた悪ガキにヘッドロックをかけながら、怒鳴っていた。人間なかなか変われんなぁ。
2008年7月 男を知った娘、オヤジは谷川
オレは某中学校の体育教師だ。夏休みもあと数日。1年で一番憂鬱な時期である。
終業式のときオレは最後のクラス学活で、説教をぶった。プリントに書いてある、夏休みの生活心得を棒読みはしない。「女子は露出度の高い服を避け・・・男子は危険な行為をしない・・」などの文面は読みかえて「女の子はひと夏の経験などといって自分を安売りして下品な女になるな。」「男は、スピード最高などといってバイク盗んで、事故起こしてけがするな。」あくびをしていた生徒たちもこの説教では、集中して聞いていた。中には女子同士で顔を見あわせる輩もいる。オレはこの子を見逃さず「さよなら」をした後、とっ捕まえて釘を刺した。「○○子わかっとるだろうな!」「男を甘く見るととんでもないことになるぞ、特に年上はイカン」「先生だいじょうぶだってぇ。それよりも○○子の方がヤバイにぃ。清純な顔しとるけどかなりインランなんだから」この手の小悪魔女の情報は意外に信頼性がある。しかし、プライドの高い清純派インラン?タイプに小悪魔女のような声かけは通じない。
おれは、6月にやった三者面談の記憶を蘇らせた。清純インラン?娘はシングルマザー家庭(母子家庭)。しかし家は裕福である。ピアノでショパンを弾くのだから文化資本は十分投入されている。母親は30代後半にして色気漂う美人である。しかしプチクレーマー。「程度の低い学校」と公言して憚らない。テスト問題に対しても「手抜きの授業でありながら難しい問題を出す」という。
しかし、他の女性教師から聞き出した、娘が関わる女2対男1のいわゆる三角関係のドロドロスキャンダルをこの母親は知らない。
生活水準がはっきり二極化している(格差が激しい)この学校では上の階層に属する。シャネルのバッグ、完璧な化粧と勝負服、プルルン口紅がこの母親のプライドと母親よりも女だというシングルマザーの気概を感じた。
オレはこの母親には高級クラブの黒服もどきの低姿勢で接したのであったが、こと娘に関しては件の小悪魔女よりは対応が難しい。昨年、この清純派娘の「静的パニック症状」には参った。1週間ほど優等生でもある彼女が、固まって何もしない。オレでは手に余って、ベテラン女教師の助けを得て何とかしのいだ。その後、放課後に話をしていると、机の上に座って足を組みながらの、かなりやばい挑発的立ち振る舞いには難儀したな。今年は何をしでかすのかとても「危うい」清純派インラン?である。
夏休みは男よりも女の変化が心配だ。生活格差の大きい学校ほど、男女関係の問題は多い。もちろん中学生だから、高校生ほどの数ではないが、その分いわゆる「やっちゃた子」の9月からの変貌はやっかいだ。化粧、スカート丈、目線の変化、男教師を見る目、背伸びして大人ぶる態度、遅刻、不登校、成績の低下、まぁいろいろな変化が「個性的に」発生する(まったく変わらない仮面女もいるが)。教師の接し方としては、生徒によっては「何でも知ってるぞ」というものや素知らぬ顔をしてクールに観察する(観察されているぞ)というプレッシャーを与えるものなど多様だ。
ところで、中校生で「娘がやっちゃった」ことを知ってしまったオヤジはどうなるか。例えば教師が知ってしまったということは、クラスの子は知っているということである。さらにこういう噂は同学年ならば3日とかからない。
まずは母親に任せて自分は逃げを打って関わらない。保護者呼び出しでは父母そろってくるが、腰が引けているのはよくわかる。まぁこの時期、父親と娘というのはほとんどかかわりが無いから、女同士である母親に任せるしかないのだろう。
次は、娘をぶん殴っちゃうオヤジ。さらに相手の男に会わせろと息巻いている。それこそ男の家にカチこみをかける猛者もいるが、相手の対応で筋が通っていれば沈静化する。
性質が悪いのは、相手の家にカチこみをかける度胸も無くその鬱憤を学校にぶつけるオヤジだ。「学校は何をしとる。これじゃ安心して娘を学校に行かせられない。相手の男を何とかしろ。教育委員会に訴えてやる。」しかしわれわれ教師は絶対にこの輩には、監督不行き届きなどと言って、学校の非を認めたりはしない。生徒指導においては教師が男女間の切り裂きに積極介入するのは百害あって一利なし。アベック家出など後が大変。
厄介なのは、娘を汚いものを見るように接してしまうオヤジだ。こういう態度は娘が敏感に察知して、殻に閉じこもる。家出や不登校が次に続く行動となる。オヤジの生理的嫌悪感・・なんともならんなこいつは
なんとか上手いことおさめてしまうオヤジ。そこには必ず夫婦の連帯がある。つまり夫婦の仲がよいというケースだ。硬軟合わせて娘と接する。厳しさと受け入れを上手く組み合わせる。
ところで、母子家庭はどうか?離婚の場合たいてい家庭崩壊+修羅場は、娘が小学3〜4年生のころに経験している場合が多い。その後3年以上は母子共に生活しているのだから、何とか収まってしまう場合が多い。どうけりをつけているかは、母娘のみぞ知るだ。
2008年8月 成果主義 谷川
オレは某中学校体育教師だ。年度当初に立てられた教育目標の中間報告なるものが夏休みに実施された。オレは、校長と教頭が待ち受ける応接室に呼び出され、自分が立てた目標が、今現在どこまで達成されたかの自己申告が求められたのだ。それは◎○△のどれにあたるか、述べよというものであった。
そういえば以前、東京は品川区の小学校での成果主義実践校の特集をTVでやっていたな。確か教育長が民間からスカウトされたやつで、企業のやり方でノルマ達成や新しい教育実践を連発して成果をあげているという内容のものだった。
その番組でも、教員が校長と教頭の前で成果の中間報告をしていた。クラスの生徒の読書量を具体的数値として目標にして、それがどこまで達成されているかを報告していた。「先生のクラスの読書達成冊数は、低過ぎるのではないか」などと校長が指摘していた。するとベテラン教師が「分厚い本を読むヤツと薄っぺらい本をいっぱい読むやつとでは当然、冊数に差が出る。冊数だけを基準に成果の有無を見るのはおかしい」と発言していた。一瞬ではあったが校長の顔がゆがんでいるのを、カメラが捕らえていた。
朝の10分間読書というのは、続ければ本を読むという習慣を身に付けさせることができる。もちろん本など持ってこない生徒もいる。しかし学級文庫を読ませたり、国語の教科書を臨時に使わせて静かなひと時、読書をする環境を教室につくることはできる。一ヶ月以上続ければ、成果は必ず出るものだ。まあしかし、中学生であるから「バトルロアイアル」とか渡辺淳一なんかの小説を呼んでけっこう興奮しているやつもいたな。
オレの時代にはませたヤツが「カミュ」や「ニーチェ」「ボードレール」などを読んでいて、一冊の本をかなりの時間をかけて再読、再々読していた。品川の成果主義でいくとこういうのはどうなるのだろうか?
「たくさん本を読むことはよいことだ。だから学校でそのような習慣を身につけてやろう」まあ、これは正論である。しかし、冊数の多少を数値に出して、成果の有無を判断するのはバカだ。いや、「ばぁ〜かぁ〜」と文字では表記したい。この「ばぁ〜かぁ〜」なことを校長や教頭、担任教師がやっとる。TVでも「ばぁ〜かぁ〜」に見えた。さすがに番組の解説者が、そういうさまざまな企業成果主義導入教育実践を「ばぁ〜かぁ〜」なやつが「ばぁ〜かぁ〜」のことをしているとやんわりと、論評していた。
それに、東京では職場にタイムカードを導入している。そのシーンも映していたが、実はこのタイムカード、退社時には通さないのだ。つまり現場では夜の8時、9時まで残業しているが、その痕跡は残らない。もちろん仕事持ち帰りのサービス残業のシーンもあった。教師は残業が手当てとして認められない分、特別手当が出るが、それは雀の涙である。教育改革先進校は、遅刻する不埒な教師を監視するという名目でタイムカードを導入したが、残業の証拠を残さない策もきっちりやっている。労基法違反というのは刑事罰を適応できるので、その対策を講じているのだろう。こうなると、「ばぁ〜かぁ〜」だけではなく「せっこぉ〜い」教育改革だ。これじゃ、首都圏の優秀な教員志願者が、この不景気の折にも集まらないのは納得がいく。
ところで、名古屋の学校だ。文部科学省からさまざまな改革が現場に下りてくる。例えば「野外教育を一週間ほどに延長するって言っているけどこれじゃ、ますます教員のなり手がいなくなる。それに2泊3日の費用すらも出ない家庭も多いし。誰が集金するんだ」と校長や教頭は苦虫を噛み潰したような顔をした。「まっとうな」超リアル反応だ。
名古屋は教育に関しては保守的だ。文部科学省改革の先進地区とも言われた。逆に言うとその分、無茶な内容で被害もこうむってきた。それに当局のアキレス腱を突くような労働運動をする教員集団もいる。それでバランスを取りながら、上からの実施命令をうまく流しているというようなしたたかな策術も持っていそうだ。いかにも名古屋らしい。悪法を東京みたいに一生懸命守らせようとすればそれは悪行となる。名古屋はのらりくらり。
さて、オレの成果評価だ。「先生はこの5つの目標に関して◎○△のどれでしょう自己評価してください」といわれた。おれは「どうしょっかぁなぁ〜、うん〜と、まあ全部△にしといて」と答えた。すると「先生それは・・超悪がきの○○を引き受けてくれて、それでいてクラスは落ち着いて授業できているようだし、オール△というのは・・」「じゃ、総合的学習の研究・研修に積極的に取り組むというところは△で、まあ後は適当に○でも付けといて」「じゃそういうことで」成果中間報告は終わった。ところで総合学習は今後縮小されていく運命にある。現時点の△は3年後には◎的評価になるかも知れんな。
2008年9月 運動会はぁ〜きょうもぉ〜雨だぁったぁ〜〜谷川
オレは某中学校の体育教師だ。運動会のシーズンだ。近頃は1学期にやる学校もあるようだが、やはり運動会は秋に限る。しかし、中学校では運動会の後、文化祭や3年生は受検のこともある。できれば予定通り9月下旬か10月の第一週で終えたい。
しかし雨が降ると困る。順延で次の日となるが、さらに雨が続くとかなりやっかいだ。運動会の提案は6月になされる。選手決めなどは早ければ7月に完了する。夏休み中に選手名簿を作成したり、必要な物品を購入したり、係生徒の配置をしたりする。応援合戦や学年レク種目を企画したりすれば、夏休み中にある程度,振付や遣り繰り算段など考えなければならない。かなり緻密な計画が立てられるのであるが、その分、再々順延などになると後に続く文化祭行事などにも影響がある。運動会は予定通り一気に終わりたいものだ。
ところがそうはいかないのである。昨年も今年も雨が降り続き、順延も続いた。応援合戦の集中力も切れ、係生徒の仕事も忘れ去られる。授業も変則的な変更が続き進度予定が狂う。
オレはシンプルな運動会が好きなのであるが、生徒会の顧問などから、応援合戦や生徒会種目をやらせてくれと頼まれると、引き受けてしまう。というのもオレが若かった頃は創意活動というゆとりの時間があって、それが週に2時間もある、それに学活や道徳などもあって、運動会が近づけばその時間が消化できる。それで、けっこう凝った応援合戦や学年の独自種目を考えて実施したりしたものだ。例えばキャタピラをやるなら、ダンボール屋にいって購入したり、台風の目をやるなら竹を切りにいったりした。応援合戦も充分時間がとれたので、かなり楽しいものができた。
応援合戦をやり始めると保護者や地域のギャラリーも増えてくる。盛り上がるのだ。教師は消耗する準備は嫌うが、行事が盛り上がるのは大歓迎である。
さらには、開校○○周年記念などがあったりすると、イケイケGO!状態となり運動会も大きな競技場などを借りたりして、大変なことになる。体育主任は、競技場の案と雨天順延の時の学校開催案を二つ考えなければならない。また、競技場へ行くまでの交通手段や安全指導、競技場器具の利用方法なども事前に事務所に行って覚えなければならない。電光掲示板なども利用できるし、全天候のトラックなども使えるので、生徒はかなり本格的に競技を楽しむことができる。しかし、雨が降ればたとえ全天候のトラックでも生徒が雨にさらされるということで中止にしなければならない。その判断をするために、体育主任は当日、朝6時頃には登校する。中止なら電話で生徒に伝えるのだ。とにかくこの時期の天候はまったく気をもむ。
また過去数年間天候に恵まれ続けて予定通りいっていたのに、次の年に体育主任として赴任して運動会が雨になったりすると雨男といわれて、からかわれることもある。しかし、順延がつづくとなかには真剣に怒り出す輩もいて、怒りのはけ口を雨男にぶつける嫌みな奴もいる。困ったものだ。
ところでオレが体育主任をやっていた頃は、天候は常に良好であった。例えば70%の降水確率でも曇りが続き、大会終了後座席を教室に戻したところで雨が降り出すといったことや、小雨で強行したときも雨はあがり晴れ間がでたりもした。オレは晴れ男である。しかし何回かは雨が降ったこともあった。例えば開校○○周年記念が終わったにもかかわらず、次の年も競技場を借りて大々的に運動会をやろうという意見が出た年だった。本当に苦労するのは体育教師である。他教科の教師は、いわれたまま動けばよいのである。にもかかわらず、体育科以外の教師が「あの感動を再び」というノリで提案するのである。自身の労少なくして盛り上がる行事をやりたがるのだ。そしてその年は「おみごと」に雨が降った。順延で学校での運動会となった。そのときは真っ青な秋晴れであった。おれはやっぱり晴男である。オレの意にそぐわないときは雨となる晴男である。次の年から競技場利用案は聞かれなくなった。
ところで最後に体育教師としていっておきたいことがある。
1,運動会の後片付けの後「これ運動場に落ちていました」とポイントのペグや小汚いゼッケンなどを机の上に置かないでほしい。ここで弁当を食べたりもするのだ。
2,運動会の後、体育科先生への「お疲れさん会」もできれば遠慮させていただきたい。酒好きはたまらんだろうが、オレは精根尽き果てていて、一刻も早く家路につき風呂に入りたいのである。つきあいだからしょうがないが何とかならんものか。
オレは某中学校の体育教師だ。文化祭も終わり、ついに3年生は進路決めの時期がやってきたな。11月の中旬に生徒と教師の進路教育相談が行われたことだろう。2学期末のテスト結果が出る前ではあるが、かなり突っ込んだ具体的な進路先の話し合いがもたれたことと思う。
ところでいま生徒はどんな状況にあるか?だいたい3つある。
そのひとつは、私学一般受験において志望校が必ず受かり、公立受検も志望校が合格圏内にあるものがいくつかある。あるいは私学推薦を希望しこれが内申書及び人物評価において合格圏内にある、というもの。これをAとしよう。
次は、どれも50〜60%の確率で合格しそうであるが、しかし必ず受かるであろう「押さえ」となる私学受験校がない、というもの。これをBとする。
さいごのCは、どこにも合格する可能性が無い状況、もしくは生活面において進路を考える状況に無いもの。
まずAであるが、2学期最後のテストで大失敗をしないよう心がけたい。結果がよければ上方修正する場合もあるだろうが、進路先がぶれるのはよくないかもしれない。難易度の高い学校を受けるにしても「押さえ」の学校を変えてはいけない。
次にBであるが、この生徒たちの学校選択に大きく影響を与えているのは熟である場合が多い。塾の判定によればこれで大丈夫だという。しかし担任は手堅く「押さえ」の学校を私学にひとつは持っておくことを強くアドバイスする。熟は全滅のときにいっさい責任を負わないが、学校は3月下旬の私学再募集まで生徒の進路先に心を砕く。Bのレベルにある生徒で行き先無しという状況は絶対に避けたい。受験生は担任から「この押さえがあればけっこう」といわれるような学校を必ずひとつ決め、他の勝負する学校は熟の進めに従ってもよいと思う。進学熟は50%以上の合格確率であれば冒険をさせたがる。合格実績は次の生徒集めに影響するので塾生にリスクを負わせるのだ。しかし、このリスクをどう受け止めるかは本人しだいだ。学校は本人の意思を最後には尊重するので自分で決めることになる。失敗すれば公立高校決めでレベルを下げざるを得なくなるが、かなり悩ましい状況となるので覚悟しておこう。
私学推薦(単願受験)については、内申書の基準があるので、学校の判断がもっとも正確である。2学期の成績結果次第であるが、12月の三者面談でOKが出れば合格可能性は高い。しかし受験結果が出るまでは油断禁物。何か生活指導面で問題を起こせば、推薦取りやめということも起こる。特に触法行為や生活面、学習面の大きな乱れが起こらないよう気をつけよう。
最後にCである。生活面で問題が無い場合は、高望みしすぎているきらいがあるので、ここは、じゅっくり担任と話し合い、合格しそうな学校を見つけていきたい。特に、まじめに生活や学習を行っているがその成果が出ないという生徒はいるもので親としては「あんな不良の行く学校は行かせたくない」と思っても他に選択の余地がないのならそこを受験するしかないだろう。
また経済的な制約がある場合は進学の意思があるかないかをはっきりさせ、最後の公立高校に賭けるしかないだろう。
次に、生活が乱れ教師と進路の話ができない状況にある生徒はどうしたらよいか?それには2つ選択肢がある。
ひとつは、進路先無しの覚悟をして自分で受かりそうなところを受けるということ。茶髪、変形学生服、ピアス、言葉使いなど改善せず一般受験をしてみる(まあ、それが通用するとは思えないが)。推薦はないので可能性は低いが内申書は一応書いてもらえるので、それで自己責任でやればよい。
あるいは就職することを考える。そのためにはハローワークに行って探すか知人を頼るか家業を継ぐか、何らかの収まり先を考えたい。
「卒業後ぶらぶらする」というのもあるが親としては後が大変であろう。
二つめは、この期に及んでと思われるかもしれないが、生活面や学習面を「ワル」の状態から「フツー」に戻すこと。そして自分が進路に向けて変わったということを先生にアピールして何とか進路先を探してもらう。ひょっとすると、進路先が見つかるかもしれない。専門学校であっても高校卒業の資格が取れるところもある。とにかく真剣に進路先を自分で考えなければならない。そのためには自分を変えなければならないだろう。
12月にある三者進路懇談会は、人生における大きな転機となる。変なツッパリはもう通用しない。運動場をバイクで走り回っても警察に通報されるだけだ。トロイクサイことはやめましょう。
最後に不登校生徒であるが学校と意思疎通がとれない場合、手は無いので何とか話し合いができる状況を作るよう本人、親が手を尽くさねばならない。そのまま引きこもってしまうとかなりやっかいなことになる。
しかし、クライ話が続くなこの時期は。
2008年11月 はずれた指導 谷川
オレは某中学校の体育教師だ。オレは過去に罪を犯した。それは体罰だ。法律上それは禁止されている。しかし窮余の策として、いや違う、計算された策略として執行した。
オレのクラスは荒れていた。ワル3人がのさばっていた。授業妨害、教師への暴言、器物破損、汚れた教室、イジメの横行と毎日がてんてこ舞いであった。オレは何とかせねばとあがいていたが打つ手が無い状態である。
悪行は留まるところを知らずエスカレートしていった。例えばそのワルを厳しく叱責すると、その後必ず腹いせで他の生徒がイジメられる。そんな悪循環が続いていたのだ。
まじめな生徒の我慢も限界に達していたようだ。そんなときにある事件が起こった。女子生徒の持ち物に油性カラーペンで卑猥な落書きがなされたのだ。しかも本人や他の生徒が見ているまえで堂々とやった。やったヤツは三悪人の2番目に悪いヤツである。こいつは小心者であったが、いわゆる粘着質な陰湿タイプのワルで一番悪いヤツの後ろ盾のもと、悪行を重ねる輩だ。こいつはこの時調子こいて、「おい、このことを先生にチクッたら殴ったるぞ」と脅しの口止めまでしたのである。さすがにやられた女子もキレて、オレに訴えてきた。
オレはその訴えを聞いて、おそらく生徒には感づかれないようにではあるが、ほくそえんだと思う。こりゃチャンスだな。オレは授業中に隣の空き部屋にその生徒を呼び出し、怒鳴りつけた。「チクッたら、なぐるだとぉ〜!てめぇ何様だぁ!!」オレはそいつの髪の毛をひっ捕まえてぶん殴った。こいつは鼻血がすぐ出る体質でこの時も、ドバーと出てカッターシャツを赤く染めた。その後、まあ一応鼻にティッシュを突っ込ませて教室へ戻した。そして、ホームルームのときオレはクラスの生徒にまったく感情を出さぬ無表情な顔でぼそっと話した。「いたずらをすることについては、素直に謝罪すれば許すが「チクッたら殴る」という物言いは我慢ならん、同じことを繰り返せば何度でも殴る」さすがにこの時はクラスの中も静まり返っていた。
変化は数日で現れてきた。三悪人の他の生徒に対する悪戯や暴力に対してやられた側が反応しなくなったのだ。例えば、授業中に後ろから消しゴムなどのモノが飛んできても反応しない。三悪人が掃除をサボっても同調したり「あいつらを注意しないのか」などという発言がなくなったのだ。
それは一種異様な雰囲気であった。三悪人はその存在が透明人間化されていったのだ。三悪人の悪行に対する他の生徒の無反応により、その悪行パワーは内に向かうようになった。一番ワルは二番目を二番目は三番目をという順でイジメが連動し、まず、三番目が不登校となった。一+二→三となるわけだから三への暴力はかなりエスカレートしたようだ。他の生徒はそれなりに三に同情しつつも無視を決め込んだ。次に一が学校へ来なくなり外で他のワルとつるんで触法行為を重ねるなどして、クラスから別の悪の世界へとワープ(移行)した。
残るは二番ワルである。こいつはクラスで完全に孤立した。例えば昼食時、一緒に机を寄せて食べる相手がいなくなりひとり窓際で食べる。クラスレクでオセロなどをやらせても組む相手がいない。それでこの二番悪は他の生徒の関心を買おうと嫌がらせやプチ暴力を振るうのだが他の生徒は無反応であり、こいつが「チクッたら殴る」の脅しどおり、先生に言うわけでもない。
オレはクラスの建て直しを始めた。まず清掃活動の徹底。まじめな生徒だけがやるチンタラ掃除活動を改善し当番全員で取り組ませる。すると掃除は6分で完了するようになった。次に教師への暴言の厳禁と敬語の徹底。
さらに授業態度の改善。帰りの会などで本日の授業の様子などを発表させ、うるさかったやつを残らせて注意をする。もちろん、この指導は厳しくというよりも儀式的な形で「授業妨害が続いた場合、親に連絡を入れお引取りを願う」といった趣旨の指導である。まあ授業妨害をすれば三悪人のようにクラスから排除されると脅しをいれるわけである。
ある日体育館を使ってクラススポーツレクを実施した。すると、二悪が来ない。教室へ行ってみると、一人でしくしく泣いているではないか。「腹が痛いから早退させてくれ」と言う。仮病であることはわかっていたが、帰した。他の生徒は二悪が早退したことに対しても無反応であった。むしろ思う存分スポーツレクを楽しんでいるようだ。
まあ、クラスはちょっとまともになった。三悪人の性根は変わらない。むしろ変わったのは他の生徒であった。しかしこのやり方はベストでもベターでもない、むしろ「はずれた」指導法だ。教育愛の存在しないやり方だろう。体罰や排除を使うのだからな。
2008年12月 不況と集金業務 谷川
オレは中学校の体育教師だ。100年に1度の不況らしい。トヨタも創業以来はじめての赤字になったそうだ。オレの学区は、市営・県営住宅をかかえる低所得者層地区である。外国人やハーフの生徒も多い。そのための支援学級もある。
不況の影響だろうか外国籍生徒の出入りが多くなった。離婚や転居も目立つ。生活保護世帯や就学時援助生徒も多い。外国籍生徒の援助が突然打ち切られる書類が舞い込む。理由は「失踪」。確かに、9月から不登校になっていた。
教師が不況を実感するのは、PTA諸経費や修学旅行の積み立てなどの銀行引き落としができない件数が増加したときである。この場合担任が集金を行う。ところが、これが一筋縄ではいかない。うっかり振込みを忘れたなどというのはごくごく少数であり、大半が振り込む金がないか、振り込む意思のないケースである。督促状を何度出しても、また電話で知らせても金は払われない。われわれは取り立て屋ではないので、電話口でも力は入らない。電車の車掌さんみたいな口調になる。「○○さんですか、支払いが滞っております。現金が準備できしだい、お子さんに持たせてください。」親;「目処が立たない」「あ〜そうですか。そうなりますと例えば修学旅行までにお金が支払われないと旅行にお子さんは参加できませんが、よろしいでしょうか」親;「けっこうです」「ああ、そうですか、一応、支払われない場合の連絡はしましたので」「がぁちゃぁ〜ん」と電話は切れる。この生徒が学校に携帯を持ってきていて取り上げたとき、当然親に電話をする。「携帯持たせる金があるのなら、支払え」と思いながらも、そのことはおくびにも出さず「お子さんの携帯を預かっています。お返ししますが今後二度と学校へ持ってこないように管理してください」「すいません、がぁちゃぁ〜ん」である。この親は携帯の費用と集金のお金が頭の中でまったく結びついていない。
教材費に関しても、例えば美術や技術・家庭科の教材購入がなされなければ授業に参加はできない。これらの教師はそれで難儀している。また学校の集金という業務を完全になめてかかっている親もいる。支払わず卒業してしまうわけだが、学校でこれを強制的に徴収する方法はない。これは最初から支払う意思のない悪質なケースだが、中には本当に金がない場合もある。援助・支援制度を利用すればよいのだが、その意欲もないようだ。また、この制度を利用していても、生活費や遊行費に消えてしまう場合も多く教材購入証明があって、お金が援助される場合もある。
不況の波は学校にも打ち寄せて、すさんだ雰囲気を作り出す。そんな時、ふと全国学力テストが頭に浮かんできた。成果主義が導入された学校において低い結果が出た地区は、教師がもっと学力向上に努力せよという数値的指標になるのだろう。しかし教育環境という観点からすれば、そういう地域の担任の努力は教材費を親に出させるというところから第一歩が始まる。お金を衣食住だけではなく教育にも使ってください、ということを親にお願いするところから始まるのだ。
しかしそれはまあ、かなりシビアな努力だ。成果はすぐには出てこまい。そうなるとつい、かんぐってしまうのだが、全国学力テストというのは、学力の低い層のあぶり出しとその地区の教育予算カットという戦略ではないかと思ってしまう。成果主義とは結果の出るところを優遇する=ダメなところはリストラするということと表裏一体なのだから、少なくなった教育予算を成果の出る地区に限定して投入するというのは、経済的合理性がある。全国で一律に学力テストを行うのは国が教育的サービスを限定的・合理的に進めるための事前調査という意味合いを感じるのだ。なお、結果の悪い地区は教師やその地区の委員会のやり方が悪いという理屈もくっついてくる。お上は責任回避もできるわけだ。
この考えはあながちはずれたものではない。その実例がある。それは日本がいつも手本にしているアメリカ合衆国である。「ルポ 貧困大国アメリカ」堤 未果(岩波新書)によると、成果の出ない公立学校の予算は削減され、さらに学校が荒れるという悪循環の状況が発生している。その地区に移民が多いというのも暗示的だ。そしてこの学力テストの結果や子どもの経済状況などの個人情報が中央に集められ、それが利用されている。それは、イラクやアフガンなどへの民間会社による戦争支援業務のための労働者の選抜と派遣である。もちろん、選抜・派遣されるのは学力テストの結果が低く経済状況の悪い人たちである。彼らの携帯に勧誘の電話が入るそうな・・失業者が今後さらに増えそうな日本は大丈夫であろうか? オレは、悲観論者になってしまった。
2009年1月 卒業式 谷川
オレは某中学校体育教師だ。卒業式が迫ってきたな。その準備のためには、会場設営のやりくり算段や、卒業証書の毛筆書き、世話になった学校への奉仕活動(念入りな掃除→落書き消しなど)、卒業式の練習、送辞や答辞の作成支援と練習。歌練習、卒業式前夜の大掃除など何かと忙しい。しかし、これは長年、同じようなことがなされてきたので、さほど苦にはならない。
むしろ、ワルガキの扱いの方がエネルギーを消費する。こいつらをどんな形で卒業式に参加させるのか?このことは今後の生活指導の方針、つまり在校生への生活指導の我々教師の「本気度」をアピールするセレモニーともなるのだ。
頭髪、異装(規定以外の変形学生服)、卒業式練習での「まじめ度」などこうしたことをどうするか?3年の先生や生活指導主事、管理職などで、協議して対応を決めていくのだ。例えば、茶髪やトンガリ頭、短ランや長ラン、ぼんたん、太目のズボン、短いスカート、ピアス、女の化粧、などなどをノーマルに戻すのか?それとも、ちょっとましになったら参加させるのか?参加させないとしたら、体育館には入れず別室で卒業式を特別にするのか?とにかく、方針を決めて卒業式に向けて該当する生徒を指導・説得しなければならない。当然のその動向は下級生の悪ガキも注目している。
卒業式自体は2時間程度で全てが終わってしまうが、その内容如何によっては次年度の生活指導のやり方が変わってくるのだ。悪ガキのやり方で押し切られて卒業式に参加されると、ワルガキ後輩はオレ達もということで早速、4月からはじけてくる。ワルガキ先輩から買わされた変形学生服(無理やりの場合もある)を早速、着てツッパてくるわけだ。
逆にもしも、卒業式のときにノーマルの服装や頭髪にして参加したら、これは、次年度には生活指導のけじめ作戦に使える。つまり全校集会からはじまり、修学旅行や運動会、野外学習、職場体験学習、卒業式などの時にはノーマルでなければ参加できないというルールが徹底できるのだ。
であるから、在校生のワル達は、門の外で卒業生の門出を見に来る。(卒業式は生徒人数にもよるが通常、全員参加ではない)
「たかが卒業式ぐらい大目に見ろ、参加させないとはひどすぎる」などと言う意見もあるが、我々中学教師には来年度の生活指導の方針が、つまりはその「本気度」がこの卒業式で決するのだ。それに悪ガキには多くのまじめ生徒が煮え湯を飲まされてきたのだ。
服装や頭髪は日ごろの生徒の生活態度を反映する。悪い言葉使い、遅刻、授業エスケープ、授業妨害、いじめ、破壊行為などなど。これらはたいてい外見と連動している。
たとえ悪ガキが学年に2人いても、雰囲気は大きく影響する。それほどに学校というのは閉鎖的空間なのだ。だから、この一部の悪ガキをどう指導していくかで、その他の生徒の指導に対する態度も決まるのだ。こと左様に卒業式での悪ガキの参加形態は、おも〜いものであり、そしてそこに教師と悪ガキのこだわりが凝縮しているのである。
ところでオレは、水戸黄門などの時代劇が好きだ。再放送を録画してみている。黄門様が、最後の見せ場で「助さん、角さん、懲らしめてあげなさい」の号令のもと、悪人にはパンチ、刃向かうものには、みね打ち、本切り・・そして最後には「この御紋が見えぬかぁ〜」の一喝で土下座となり「追って沙汰があるぞ、観念せい」の小気味良い裁断。このとんとん拍子の流れで、卒業式を滞りなく進めたいものだ。まあしかし、実際には悪ガキから見ればオレ達教師が、時に黄門様、助さん角さん、悪代官や「えちごや」などの悪商人に見えるだろう。
事実、我々教師は生活指導に関しては、脅し役、なだめ役、すかし役など決めて作戦を立て実践しているのだ。
代官(学年主任)「二戦級、小ワルを高校推薦を餌に大ワルから引き剥がし、最後には大ワルを孤立させて学校から排除する。えちごや、おぬしなかなか悪よのぉ〜」えちごや(ベテラン生活指導)「そうゆう、代官様も「おまえもちょっとは直してきたのだね、その気持ちは汲んであげよう」といいながら、親には「少し良い方に変化しています、これで完全にノーマルの状態となったら卒業式に参加させましょう」などと最後通告を突きつける。それで、やりきれなかった場合は、卒業式から排除する。親も教師と共同戦線を張ったため、ごねたりはしない。代官様もなかなかのもので。」「そうか、そう思うか」代官・えちごや共に「ムフフフ、ぬうぉはっはっはっ!!!」まあ,こんな感じでチームワークが取れていれば生活指導は磐石である。
オレは某中学校体育教師だ。新中学1年の入学式が近づいた。子どもは制服を設え、お母さんもスーツを用意して準備万端であろう。我々教師はこの入学式に向けて、会場準備や教室の整備、受付の設置など抜かりなく受け入れ態勢を整える。教師にとって入学式は今後3年間面倒を見る生徒たちがどうなっていくかを予測する最初の儀式だ。この時に生徒の動きや服装、式に臨む姿勢、親の参加状況などをこまめに観察して当面の4〜5月までの生徒対応を考える。
まず、学校での最初の受付。すでに名簿があり、就学通知書の提出とチェック、新クラスの掲示と運動場でのクラス別整列を行う。たいてい、2,3年の室長クラスの生徒を使って一年生を案内させる。ところで、ここまでのところでいろいろなトラブルが生じる。
1、 就学通知書の忘れ。名簿外の生徒の発生
2、 遅刻、欠席(不登校生徒も含む)
3、 茶髪、ピアス、異装(規定以外の制服)の対処
4、 トラブル保護者の対処。などである。
1、2では突然の転入・転出などもあるので連絡をとったりするが、正確な最終人数確認が必要である。これが確定しないと、例えば規定人数以下だと、5クラスを4クラスに編成し直す必要が生じるので一番気を使う。
3は2月に行われる小中連絡会などでの情報交換があるので対応は決まっている。スルーさせるか、直させるか、別室へ入れて式に参加させないか。様々な方法がある。
ここで親とのトラブル4が発生する。オレの経験したところでは、門での親の罵倒。職員室まで入室してのごたごた。親子とも帰っちゃうパターンなど色々だ。どしょっぱつの式での親子とのトラブルであるため、まあ親もヤンキーっぽい人や○暴系だったりして消耗する。しかし、学校は式に参加させないと決めればそれをやりきるので、親にも覚悟が必要であろう。配置困難校(生徒が大変な学校)などではたいていはスルーさせてしまうがしっかりチェックされ以後、集中的指導が入るであろう。
式場での生徒の参加姿勢にも、教師の目が光る。特に小中連絡会で話題になった生徒については注目が集まる。全体のムードも観察する。きちっとできていれば、おそらく小学校の卒業式もそうであろうと見做される。したがってそこに至るまでの教師の指導が徹底されていることの証左となる。「指導が入り易い」ということだ。ざわざわしたり、礼ができなかったり、はやくも大声で怒鳴られたりする状況だと「指導が入っていかない生徒」ということで今後の生徒指導はシビアなものになる。
親の動きにも注目される。ベンツで乗り入れ違法駐車をする親。親子ともペア金髪ルックで参加するもの。式のときに子どもよりも私語の激しい親集団などがチェックされる。式も終わり、教室へ親子が入って最初のクラス顔見世が行われるが、ここでも緊張感がない生徒の場合今後が大変だ。最近は「指導のはいらない生徒」やトラブルメーカーの親が増えたように思う。
ここまでの生徒や保護者の状況でだいたい今後の3年間が予測できる。受付から式、学級での最初の顔見世まで滞りなくすすめばまず、3年間は安泰であろう。一部の親や子どもに「非常識」な行動が見られた場合、まあこれも、小数派ということで何とかなるだろう。全体的に落ち着きがなく、5人を超える程度にはじけている生徒がいて親も似たようなものだと3年間は思いやられる。しかし配置困難校であってもきちっとした指導システムと教師の協力体制が確立しており、1年、2年、3年と学年が上がるごとに落ち着いていく学校もあるので悲観することもないが、「全体的に低学力」という問題がある。これが、昨今の格差社会にあって定着してしまうと進路に関してはやはり進路指導困難校であることも定着してしまうということもある。この不景気のご時世で、中学お受験が逆に増えている実態はこんなところにあるのかもしれない。しかし、公立中学においてはたとえ配置困難校であっても波があって生徒の良い年もあるのだ。逆に越境通学の多い、環境のよい学校であっても、3ヶ月で崩れるときもある。こういう学校は対策が確立していないので教師同士、対生徒、対保護者の関係・対応が、がたがたになって目も当てれないような状況に陥ることもある。
入学式は3年間の生徒や親の動向を占う象徴的な行事なのだ。親は心して参加していただきたい。最後にひとつ。式が終わった後。知り合いの親と喫茶店で一服を考えている方もあろう。注意して欲しい。教師集団も似たような時間に同じ喫茶店でガチンコする場合がある。ここでもお互い発言などには注意が必要だ。
オレは某中学校体育教師だ。4月の教師の最大イベントは歓送迎会である。学校を出た人、入った人たちのために一席設けるのだ。出た人はその勤務先の印象を語り、入った人は「よろしくお願いします」の連呼だ。宴会では前任校の話はあまりしないのが礼儀らしい。良かったといえば現在の職場が「いかん」と受け取られるし、「悪かった」といえば悪口となる。自然と口は重くなるのだ。
ところで、出て行った人の顔つきを見ているとだいたい赴任先の状況が想像できる。例えば生活指導が入って歓送迎会にも遅れるような学校に赴任した教師は、全身に疲労色が滲み出ているのがわかる。対して、どこか朗らかで穏やかに微笑している教師は、「当たり」の学校に赴任できたのだ。
通常、転任した場合、最低3年、最長8年のお勤めとなる。我慢の3年か?ラクチンの8年か?転勤はどこの職場でもそうであるが、教員人生における重要事項だ。下手すれば身体や精神が疲弊し破壊される。今現在、教員の精神疾患者数はうなぎ登りで、2割ぐらいはいるらしい。また栄転か都落ちというパターンもある。教務や教頭、校長に昇格して移動する場合もあれば、横滑りあるいは降格して移動する場合もある。歓送迎会は酒がすすむにつれ、この状況が反映して二次会あたりで大荒れになることもある。
オレは運良く大当たりが続いたが、現在の赴任校は中ハズレであった。8年満期はないだろう。やはりよい学校が楽だ。しかし、生徒が良くても教師間がギクシャクしていると消耗する。大人同士の諍いは陰険である。
悪ガキ密度の高い学校は教師集団が協力している場合があるので慣れてしまえば意外に長続きすることもある。例えば、茶髪、多数の遅刻、不登校、器物破損、教師への暴言が日常化しているところで、子どもをダシに教師同士が足を引っ張り合う余裕はない。協力しないとやっていけないからだ。また、校則を守らせるハードルも低い。他方で生徒のよろしい学校は、チャイム着席が他クラスよりちょっと遅いというだけで、担任の力量が問われる。けっこうセコイ「比較根性」がのさばる。学級経営の良し悪しは先生の力量よりも生徒の質のほうに拠っているのだが、勘違いする教師も多い。ハズレ学校の「挫折」はこーゆー教師のために用意されているのだ。
ところで歓送迎会でもうひとつ、はずせないものが退職教師の存在である。ある意味この「宴」においてこの人の教員人生が何であったかが伝わってくる。切り替えが早く第2の人生をエンジョイしている人は、明るい。仕事がすべての人はまさに「心に穴」があいたようにポカンとしている。非常勤講師などの次の働き先を確保して意気揚々としている人もいる。しかし「本流」からはずれサポートもしくは「お荷物」になってしまうことも多いので現役時代とのギャップに戸惑い、ときには落胆して長続きしない教師もいる。
オレはというと、20代はハチャメチャ、30代は部活動、40代はなぜか幅跳びやバスケなどの教科指導法に自分なりの指導スタイルを作ろうとしてきた。今は、中ハズレ学校なので、自分が身につけてきた指導オプション(レベル1〜3まである)を使い分けている。そして50代の仕事の主たる目的は、生存生活の確保と子どもの学費捻出となった。まあ、ぶちゃけ、早くやめたいのである。オレにとって真夏37度の4時間外体育はきつい。だが、子どもがひとり立ちするまでやめられない。
しかし、ローンもないので子どもがひとり立ちした後の稼ぎは、老後の蓄えと休日などの「遊び」に使えるようになると思えば、少しはうれしくなる。オレは学校の仕事が天職でもなく「すべて」でもなかったので、「遊び=人生のエンジョイ」のオプションを努めて意識しながら用意してきた。もちろん仕事も遊びも両方全力という器用な人もござるが、オレは「仕事以外」が人生のメインとなっていた。35年前の大学時代、ある教授がこう言った。「教員は出世を考えず、子ども相手にのんびりと生きていける。夏休みには研究や遊びに多くの時間が割ける。給料は少ないが時間と心の自由がある」現実はそうではなかったがオレはこの言葉が今も心に根付いている。
教師評価制度が始まった今、オレみたいに「守り」に入った教師こそ、淘汰していきたい対象となるのであろう。しかし50代になってリタイア後のエンジョイライフをイメージできない教師というのは、ある意味、精神的成熟がすすんでいない気もする。しかし教員を評価する側の管理職がオレの教員評価をするとしたら、間違いなく「C」である。
オレは某中学校体育教師だ。3年生は、この時期の前後から修学旅行シーズンとなる。名古屋は東か西へ向かう。東なら東京・横浜・房総半島・伊豆箱根方面・富士山周辺である。西なら広島・神戸・大阪・京都方面だ。
一時期、総合の関係で西方面が流行ったことがあった。広島原爆見学コース、平和体験コースである。ところが、被爆者体験レクチャーなどが最近の悪ガキ中学生の聞く態度の悪さでとてもやっていけず、敬遠されるようになった。また大阪のUFJジャパンがディズニーの代わりになるのだが、どうもインパクトに欠けるらしい。
総合に関連付けて修学旅行を考えると、オーソドックスな思い出卒業旅行にはならない。ところがよく考えれば修学旅行は、生徒の実費負担である。義務教育において2泊3日で5万円からのお金を使って総合学習+思い出旅行をやろうというのだから、担当者は大変だし、親の経済負担もきびしい。
一時期、金の払いができない生徒は(生活保護を受けていない限り)ただ逃げしているケースもあった。この金をどう埋め合わせるかというと、実は旅行会社が目をつぶるか、学校の埋蔵金で埋め合わせをしていた。この埋蔵金とは業者からのリベートなどがプールされたり、出張旅費の余りなどがそこに混ぜられたりしていたらしい。しかし、こういった裏金はきびしく管理されるようになり、会計監査も入ったりするので、ほぼなくなったようだ。すると、金の払えない生徒は修学旅行には行けない。
対策としては1年生から積み立てをさせるというのがある。まあ1年生から、振り込まないと修学旅行はいけないよと保護者にプレッシャーをかけ、無駄金を使わせないというやり方だ。しかし、現在はこれも怪しくなった。というのも銀行がある額以上元金保証しないし、銀行そのものが潰れることもあるからだ。となると、一括払いか、短期による二、三分割払いなどがなされる。ところがこう不景気になると保護者によってはまったく払えないか一部しか払えないことになる。こうゆう厄介な保護者に対しては、今まで時には教師が自腹を切って補助したりしていたがこれもおかしいので全額、前払いができない生徒については、参加させないという方針になった。
こうなると、経済貧困地区の学校は修羅場である。ただ乗りトンズラ(卒業)はさせない!の教師サイドの決心のもと、何度も文書で支払いの滞る保護者に督促状を送るのだ。学年全体保護者会でも警告を発する。「ケータイやちゃらちゃら遊びグッズの管理、生活の引き締めを実施して、ぜひお子さんの修学旅行費用を捻出してください」とお願いするのだ。ところがこういう集会には支払い延滞者は参加しないし、警告プリントも親に渡らなかったりする。電話で督促しても、「ない袖は触れん」「わかった、わかった」というばかりで金は出ない。
さらにこの不景気である。リストラor離婚→貧困、貧困→離婚→極貧困などの貧困スパイラルがあって、突然支払いが滞る場合もある。夜逃げなどもあるが、もともと貧困地区なので、貧困である限りこの地区からは抜け出せない。
オレ達教師は修学旅行においてもろに、各生徒の家計の問題に直面するのだ。しかし教師の権威も低下し、ついでに給料も7年前より低下し、さらに今年も2万円以上ダウンした現在、行けない生徒へのポケットマネーなどとんでもない話である。しかも学校にモノ言う保護者(クレーマーも含む)が増えている。そうなら「自己責任だぁ!」となる。
オレ達もこの金がらみの件についてはクールになってきた。このような修学旅行費用の延滞・未払い生徒は、かつて「かわいそうな生徒」という感覚であったが、今では「ただ乗り、未払い逃走(卒業)負債者」というイメージである。だからきっちり前払い完済しない生徒に修学旅行はない。教育的配慮などない。終わってから後で何とか用立てしますというのもない。であるから、そろそろ修学旅行の形態、費用とか、スタイルを変えていく時代になった。義務教育の平等性は修学旅行では存在しないからな。
最後に、悪ガキである。これも厄介だ。しかし、態度を改め、親がそれを保証し、茶髪、ピアス、ケータイ非所持、ルール遵守などを約束し実施できれば、連れて行ける。もちろん旅行途中で重大な問題行動を起こした場合は即旅行離脱で親に引き取ってもらう文書を交わすのであるが・・
保護者の皆さんよぉ〜く知っといてください金がらみの修学旅行に教育的配慮はありません。もしも未払いで修学旅行に参加したら、そして完済せずに卒業したら犯罪です。
オレは某中学校体育教師だ。4月16日の夜7時ごろオレは帰宅するや、緑色の給与明細を「そぉーっと」チラシなどに紛れ込ませるように食卓の上に置いた。その後長めの入浴を終えた後、浴室を出ると「なんじゃ、こりゃー!!」という家中に響き渡る根太い声が響いた。オレは一瞬、「西部警察」のジーパン(松田優作)が、どてっ腹を撃たれてお陀仏となるシーンを再放送でやっていたのかと思った。いや、そう思いたかった。
しかしその声は、生活費を補完すべく非常勤講師をしている妻の叫びであったのだ。「ちょっと何よこれぇ!3月よりも23423円も給料がさがっているじゃない!」
これは今に始まったことではなかった。実は7年前よりも給料は実質下がっているのである。まず通勤費用。前任校では、公共機関を利用できたので、持ち出しなしだったが現在は車通勤を余儀なくされている。始発のバスに乗っても間に合わないのだからしょうがない。距離は14キロほど。ガソリン代高騰の折は、土日のお出かけをやめた。しかも学校に駐車料金を年間42000円払わなければならない。クルマで通う場合、通勤手当はまったく足りず持ち出しが15000円を越える。職場によって差が出るのだ。
オレの居住地の町民税も上がった。かつて、名古屋市との合併を前提に箱物行政をやった付けが回ってきたのだ。確か、100票差ぐらいで町長選にせり勝った町長が、年間1億円以上の赤字を垂れ流す箱物をつくちゃったのである。当然、次の選挙では反対派が町長となったがすでに遅く、町民サービス削減と町民税のアップによって借金を返している。
オレの子ども2人は今大学生。いちばん金のかかる時期である。それに、基本給に連動するボーナスもおよそ10万円以上下がる。そのわりに学校での仕事は増えるばかりで、悪ガキは増長し親はモンスターペアレントじゃ、勤労意欲も失せる。団塊世代の大量退職によって採用人数は増えているが、希望者が少なく他県へ人集めをしている状況も頷ける。教員採用試験で3倍を下回ると教師の質が確実に落ちるといわれるが、名古屋・愛知県も危ないらしい。「公務員は給料減額があってもくびになることはないから、贅沢を言うな」と言われればそのとおりだが子どもの教育、すなわち子どもの将来を左右する仕事である。また高学歴で免許を取得し高い倍率の採用試験にパスした専門職でもある。優秀な人ならば不況でも他の職場であればそれなりの給料が出るだろう。だから優秀な人材が教員から他の職に流れて競争倍率が3倍をきるのである。
ともあれ我が家の耐久生活が始まった。まず下宿の子どもの仕送り20%減。バイトでまかなってもらう。「キャバクラをやるわ」といって抵抗したがこの業界も不景気なのさ。体育教師であるオレは大食らいであったが、エンゲル係数低下に向けて、食費を減らすことになった。豚、牛肉ともに国産にこだわらない。無添加安全食品を減らし、チラシチェックで安い食品を梯子して買い漁る。オレの小遣いも40%減となった。本は極力ブックオフで購入。土日は出歩かず、家で庭の草抜きに興じる。大好きな小倉クリームパンを買わず、食パンにシュガートースト税込み188円を塗って菓子パンの代わりとする。とにかく腹が減ったら低カロリーのコーヒーをブラックで飲むのだ。サラダはレタスよりも水菜がかさ上げ役となる。ドレッシングやマヨネーズは業務用の徳大サイズを購入し、ウインナーをやめて魚ソーセージ5本ワンパックを食らう。おかずが減った分、漬物を増やしてそれでご飯を食べる。昼食はなしとして(オレのみ)、夕食を米・漬物・味噌汁にミンチ系お惣菜とする。つまり給料日直前耐久生活を毎日行うのだ。
省エネ、消灯、風呂水の洗濯への使いまわしは当然として、風呂もシャワー日を3分の2とする。今のオレの部屋着は20年前の穴あきジャージであるが、こいつは長持ちだ。チャックはYKK製であるので健在だ。のどが渇くと無性にコーラを飲みたくなるのであるが、こらえて自家製健康茶をがぶ飲みしている。こいつは便秘にも効くので、重宝する。
耐久生活3ヶ月、しかし不思議と体重が減らない。超格差社会アメリカでは貧乏人ほど肥満だという。つまり安くて高カロリーのファーストフードを食するのが原因らしい。どうやらオレもこの口か?
しかし、30度を越えた日に3時間の外での体育を終えたオレは、運動場から職員室に向かう階段のところで一瞬めまいがしてコケた。手に擦り傷を負い、血が止まらない。オレは「なんじゃ こりゃー!!」と自分の手の血を見て叫んでいたのである。
オレは某中学校の体育教師だ。夏休みである。教員生活も山あり谷ありであるが、夏休みは気分が盛り上がちゃうハッピーな時だ。終業式が終わり、通知表を渡して下校させる。オレは生徒のいなくなった教室で腰をおろす。肩の力が抜けて、なにやら心のそこから明るい気分が沸き立ってくる。「ムフフフ、40日間のんびりできるな」オレのバイオリズムは最高にハイである。明るい人生。夏休みはにこれを感じるのだ。
オレが教員になりたてのころ、夏休みの40日間は今ほど新卒研修も多くなく、出校日の2〜3日を除いて「自宅研修」というかたちで家でのんびりできたのである。教員の中には北海道や鹿児島などの実家に帰って、夏休みの90%以上を学校へこないというつわものもいた。オレは部活やプール指導などをやっていたので実際には2週間程度しか休まなかったが。
それが世の中、週休2日となり、学校も隔週5日、完全週休2日となって、世間の教員に対する視線も変わった。「あいつら、休みすぎじゃないか!」親からも「土・日に子どもが何もせずゴロゴロされてかなわん」と不満が出た。
世間の目を最も気にする学校(というより教育官僚たち)は、土曜日に特別授業をやらせたり、夏休みに補充授業を計画させたりして、批判をかわそうとした。また、夏休みの「自宅研修」の許可・認定をきびしくして、休むときは極力、有給休暇をとるよう教員の夏休み生活の締め付けを図った。
結果としては、子どものいない学校に用もない教員がゴロゴロしている状況となったのだ。
1年目の教師は研修で大変だが、ベテランはやることがない。それでなのか、教員免許更新制度というシステムが新設された。これは一定程度の講習や試験を受けて免許を再更新させるシステムである。一応建前は教員の質を維持向上するというものだが、本音は「夏休みサボらせないシステム」戦略だとオレは勘ぐっちゃうのである。
しかし、これは有料である。給料を下げられ、駐車料金をとられ、通勤手当も自動車の場合は持ち出しとなり、修学旅行費用は教師も前払いで、後に出張費用として払い戻すといった、わけのわからんシステムが最近増えている。
ところで、教員というか公務員を週休2日にしたのはなぜか?これは、人件費抑制のためである。かつて「日本人は働き蜂だ」と言われ「休みを増やして内需を拡大し、働く量を西洋並みにしろ」との天のお告げ(アメリカの意向)に従って産業界全体が週休2日へと向かったが、公務員の場合は違う。働く量を減らしたのは、給料を上げないためだ。実際、この7年間で給料は下がり続け、いろいろな名目で経費削減がなされた。
よく、学校の週休2日をやめて、1.5日に戻せという意見があるが、そうなると、人件費がアップして教育予算はパンクするのだ。だから、週休2日の基本線は崩れない。これから、公務員への予算が増えるとは考えられないので、労働時間を減らして給料削減を進めるのだ。
ところで夏休みなどは休みづらくなったとはいえ、学校に生徒がいないといつも張り詰めていた緊張感はなくなる。そういう意味では夏休みは精神的には楽になる。自分の裁量で仕事をすればよいのである。それにこの充電期間は教師にとっては絶対必要なものであると思う。このリフレッシュ期間があって初めて、2学期を迎えることができるのだ。精神的に余裕のない教師は、やはり生徒との関係も上手くいかない。
まあ、このきびしい世情においては、なんと甘いことを言っとるのだろうと、批判される方もござろう。それで例えば「夏休み期間がそんな状態ならば給料を出さない」といわれたなら、おれは支払われない労働はしない主義なので、夏休みはしっかり休む道を取る。心の健康が保ててなんぼの世界である。これが崩れたらすべてを失う。
もちろん、そういうシステムになれば、この期間は他の労働に従事できるようになるだろう。生活費に困ったらオレは体格が良いので自分の体の状態に合わせて肉体労働などの拾い仕事をするつもりだ。まあ、そうなると体の休養はできないが。しかし、財政破綻地区の公務員はかなり悲惨らしいから今から、そうなったときの覚悟は必要であろう。
ところで7月20日が天国なら、8月25日あたりから気分はブルーになってくる。8月31日は地獄だ。この時オレのバイオリズムはボトムをはいつくばっている。
オレは某中学校の体育教師だ。衆議院選挙が迫っているな。民主党が優勢らしいが、選挙は水物である。開票結果が出るまではどうなるかわからん。ところで民主党はそのマニフェストのなかで、公立高校の授業料無料、私学高校生への援助の強化、大学の教員養成課程の2年延長、教育実習の長期化(1年間)などを公約している。
公立高校無料化などはこれが実現されれば、進路指導がやりやすくなるだろう。なんといっても、名古屋や愛知地区はいまだに公立王国である。
しかし、実際に3年生の進路相談などをやってみると、少しばかり違和感を感じてしまうのだ。
この制度は誰にとって有益なのか?公立へいける生徒だ。名古屋の公立校もレベルはピンキリであるが、3校ぐらいの定員割れ底辺校を除いて、それなりの成績がないと入試にパスすることはできない。
それでは最底辺校はどこが受け持っているか?それは私学である。だいたい、5校ぐらいが、評定9科合計9〜14ぐらいの生徒を引き受ける。もちろんコースによっては同じ学校でも高いレベルの生徒を募集しているが。
つぎに、15〜17、18〜20、21〜25、26〜27と層をなしつつ私学どうしで棲み分け・一部競合しながら引き受ける。27を越えると、公立高校と私学が競合しあって、その中の3〜4の私学が付属大学をPRして公立と生徒獲得合戦をくりひろげる。39〜40以上となるとこれはもう、公立高校の独占場である。もちろん2校ほど名門私学があるが、生徒の進学数は少ない。
すると、公立にいけない23ぐらいから下の生徒は、私学を目指すことになる(もちろん例外はあるのでこの数字は目安である)。特に20を下回る生徒の大半は私学狙いとなる。となるとこの生徒たちには民主党公約の公立無料化の恩恵は受けられない。
ではこの層の生徒はどういう経済状態にあるかというと、まさに授業料の無料化で救われる生徒なのである。成績はいまいち、多少悪さもした、しかし高校へ進学すべく、改心し、それこそ分数から手をつけたり、中学1年の教科書をやり直している生徒たちなのだ。(繰り返し言うが例外もある)
反面、公立の名門校に合格する生徒は、おおむね経済状態は良好である。
教育への予算配分はここ名古屋においてはやはり、経済的弱者に不利である。これは偏ったばら撒き。もちろんやらないよりは良い。しかし、違う使い方もあるのではないか?例えば、私学の授業料を公立並に下げるよう援助する。あるいは、もっと根本的に小中高の20人学級を実現するなどだ。余裕のある、きめ細やかな学習・生活の指導ができるよう予算を使うほうが、長い目で見れば、プラスになると思うが・・
さてオレが、教育マニフェストをすればこうなる。
1、公立・私立の授業料をほぼ同じとしてその50%をカットする。
2、小中高の20人学級の実施。
3、学校のエアコン、プールの温水化の完全実施。
4、義務教育学校のハイブリット化。すなわち生活指導困難生徒のための特別クラス編成と支援学級の細分化。
5、学校事故部門、モンスターペアレンツ対策業務、各種必要諸費用未払い家庭の集金業務部門の設立。これに教師以外のエキスパートを登用する。
6、学校の教師は授業にのみ専念できるようその他の雑務を受け持つセクションの設立。
7、財源。不明(どっかにある埋蔵金)
どうであろうか?オレのマニフェストは。「なんか教員だけラクしようと考えていないか」と思われるかもしれない。そのとおりぃ!!今、教員は過重労働である。しかも安月給。夏は暑い。教室や体育館にエアコンを入れてくれぇ!悪ガキや親対策に手間がかかる。誰かかわりにやってくれ。
ところで「マニフェスト」とは広辞苑によると@宣言。宣言書。A特に、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」を指す。とある。この用語、高校の倫理社会の教科書で見たが、民主党は「共産党宣言」をしているのかぁ。こいつは革命なんだな。
オレは某中学校体育教師だ。運動会のシーズンである。しかし新型インフル流行中。運動会は大丈夫か?
さて、学校によっては運動会を1学期の5,6月ごろにやる場合もある。ここでやると2学期の行事が楽になるからだ。2学期は文化祭や進路など、何かと忙しいからな。
しかし、オレは2学期の実施がよいと思う。理由は、体育の授業で1学期間かけて練習ができるからだ。高跳びやハードルなら、授業でやっておくと大会新記録などをねらうことができる。選手決めも、のんびりできるし、応援合戦などを企画しているのなら準備時間もしっかりとれる。1学期にやろうとすると、結構キツイ。準備不足のためハードルや高跳びなど選手のなり手がない場合がある。ましてや持久走などが種目に入っていると、けっこう泣かされる生徒もいるだろう。
運動会の種目については公立中学校では、だいたい個人種目とリレーなどのグループ種目、それに運動音痴対策としてレク種目を設定する。この種目構成の基本はオレの中学時代(40年ほど前から)から大きく変わっていない気がする。
ところで、オレはとある筋から、某私学お嬢さま中学校の運動会のプログラムを入手した。その内容を見ると、個人種目は50m走だけ、他はレク的な種目が多い。例えば、風船割り、借り物競走、2人3脚、台風の目、綱引き、障害物リレー、騎馬戦、ムカデリレー、部活対抗リレー等々。もちろん、得点化して、クラス順位をつけて表彰する。しかし、公立中学の運動会プログラムとは根本的に違う発想で組み立てられている。
このお嬢様学校では、個人の運動能力の優劣をはっきりさせない。つまりグループ内協力、グループ間競争で着順をつける形を目指す。だから、ドベになっても個人的ダメージが少ない。また種目も厳密なルールに縛られるものではなく、どちらかといえば遊戯的要素が濃い。
これは楽しくやれる運動会だ。というよりも「祭り」に近いものだ。実際「体育祭」と銘打っている。そういえば、かつてオレは運動会の形態を変えようとして、レク的なものを増やしたとき、名称を変えることになった。通常競技的指向が高い順から「陸上競技大会」→「体育大会」→「運動会」→「体育祭」というように名称が変わる。
オレはどちらかというと競技的なものとレク的なものが半々であるのが好みであるが、「祭り」になっても構わないと思う。かつて、オレのクラスの1500m選手決めはじゃんけんで負けた生徒がやることになり、結果としてそれが不登校の引き金になったことがあった。生徒のアンケートを採ると、やはり持久走などの個人種目は人気がない。この種目を減らすだけで、クラスでの選手決めのストレスはへる。
ところでこのお嬢様私学中学校は、部活動が盛んな学校であり、全国大会出場や中にはオリンピック選手を輩出するような学校でもある。文化部の方も盛んでコンクールなどで賞状を得ている。
そのようないわば体育会系要素の色濃い学校であっても運動会は「祭り」タイプなのである。これは、文化格差から生じる指向の違いなのかもしれない。要するに、競争や勝敗を前面に出すような、ギラギラと脂ぎった根性運動会などやらずとも、充分、自己アピールを実現できる、ということだろう。
よく競技志向の強い種目を運動会からなくそうとすると、「この1500mでしか活躍できない生徒のチャンスをつぶすことはない」という意見が出される。確かに、ハードルなら○○君、高跳びなら○○さん、100mは○○君が11秒台を出すかな?といった活躍の場になることもある。
まあこれも悪ガキが多く生息し、運動で彼らをコントロールしているような学校ならば、競技志向の強い種目をやらせて成功体験と他生徒からの承認を得るチャンスと見做すハングリースポーツ型の生活指導戦略とはなるだろう。それに、この手の種目は準備も楽でルールも厳密なので勝敗でのトラブルは少ない。「祭り」型は、準備が大変で独特な練習も必要だ。立案・準備に余裕が不可欠だ。
そういう意味では、学校行事やカリキュラムに余裕がないと独創的な「祭り」型運動会はちときびしい。また学区周辺地域の経済的・文化的格差や各中学校の体育教師や生徒会担当教師の考え方によっても運動会はその形を変えていく。
勝ち負けばかりが目立つ競争指向の強い運動会をやっている中学校はもしかしたら、学校生活全般の「ゆとり」がなくなってきているのかもしれない。オレはもちろん競技型にせよ祭り型にせよ一番楽な運動会の形態を日夜求めていく所存である。
オレは某中学校体育教師だ。ついに進路の季節がやってきたな。今頃は、2学期期末テストの勉強に追われていることだろう。このテストは、中学生活において最高の結果を出すのが望ましい。多くの生徒はそう思って必死に勉強しているだろう。
しかし、この時期に遊び呆けている輩もいる。まあ、進学のための努力・苦行を投げ出しているのである。進学そのものを諦めている訳ではない。みんなと同じように、高校にいきたいと思っている。もしもそれ以外のコースをとるならば、それは就職か引きこもりかプータローぐらいしか選択肢がない。そしてそこには、幼稚園から中学校まで傍らにいた友達はいない。
彼らはこの時期に至るまで進学のための準備や心構えを怠っていた。そしていまさら「ムリ」だろうということを実感させられるのだ。当然、気持ちは荒んでくる。それは「みんなから置いてけぼりイヤイヤストレス」となり、そのはけ口が学校へと向けられる。その状況は例えば次のような行動になる。
1、授業エスケープ、無駄口、冷やかしなどの授業妨害、居眠り、机に教材を出さない。
2、校内喫煙(唾吐き付)、物品、校舎破壊、下駄箱荒らし
3、遅刻、欠席、早退の増加、髪染め、異装,ピアス
4、触法行為、イジメ、恐喝、他校とのけんか、深夜徘徊、カラオケなどでの飲酒、バイク窃盗
5、校内・校外での不純異性行為(これ見よがしのイチャツキ、見せびらかし)
などがある。もちろん、こうした行為は、進路に関係なく中1のころから盛大にやっている悪ガキもいる。しかし、進路の現実がまじかに迫ったときに今まで押さえていたものが弾けて一気に生活の乱れにつながることもある。この時期生徒がこうなってしまうと、教師としても手の打ちようがない。かといってほっとくわけにもいかないので指導はする。しかし、それはあくまでも、他生徒の進路の邪魔にならないための「迷惑防止指導」だ。悪ガキもそのことをわかっていて、わざと他の生徒に迷惑のかかるような行為をする。例えば、進路保護者会中にバイクで運動場を走り回ったり、校舎内で不審火を発生させたりと鬱陶しいことこの上ない。
そういう生徒があまりに多い場合、教師は「禁じ手」を使う。彼らが荒れるのは、高校へいけず今までのように学校というぬくぬくとした面倒見のいい場所でワルガキと共に好き勝手ができないという、まことに手前勝手な疎外感を持つためだ。
それゆえ進路を投げ出した生徒の中でも、話の通じる軽度な生徒を一本釣りしながら、進路先の保証を小出しにするのだ。高校や専門学校によっては、休まず大きなトラブルを起こさない生徒であれば成績や当日のテストの結果に関わらず面倒を見てくれるところもある。生徒や保護者によく言い含めて、生活を改善させ進学の道筋を具体的に示すのだ。いわば、進学指導では先生に対して絶対服従を態度で表せば何とかするという道を示すのである。そうすると、進路迷惑悪ガキは減ってくる。
ところで「カイゼン」とは具体的にいえば、まず身なりをなおす。髪を黒くし、制服をノーマルにして、ピアスなどをつけない。校内で喫煙しない。学校生活ではトラブルを起こさない、教室にいる。教科書は一応出すなどだ。教師への態度も変える。反抗せず、指導を聞く姿勢を見せる。
かなりたちの悪い悪ガキがいるところでは、例えば家でじっとしていて、学校へ来て悪さをしななければ高校の面倒を見るということで「進路指導迷惑」を封じ込めることもある。それも聞かず悪行をなす悪ガキは、教室に入れず、特別な部屋へ隔離し、1〜2時間ぐらいで早退させる。親に引き取ってもらうなどして、徹底的に学校の教育の流れから「排除」するのだ。これができないとたとえ超悪ガキがひとりいても、学校は引っ掻き回される。教師は他の生徒や保護者、あるいは教師同士からの非難を浴び、まことに精神上よろしくないことになる。
悪ガキ諸君よ、学校が「進路指導迷惑条例」を施行し始めたら、心せよ。それは最後の進学へのチャンスであり、これを逃せば、学校から徹底的に排除されるのだ。先生はもう、怒ってはくれない。無表情もしくは微笑みながら(目は笑っていない)「さあ、そろそろ下校しなさい」と呼びかける。「いやだ」といえば「親に引き取ってもらう」となる。親へ連絡がつかなければクルマで家まで送る。「じゃあーね、今日はもう学校へは来ないように」とソフトトーンで告知するのである。
オレは某中学校の体育教師だ。新型インフルエンザが猛威を振るっているな。5月ぐらいから、2派、3派と流行を繰り返している。修学旅行シーズンにあたり、これを延期した学校もあった。ところが、延期して9月や10月に、実施しようとしたらまたまた、インフルエンザが広まって、延期した修学旅行がいけなくなるような事態も発生しているらしい。また、9月〜10月は運動会のシーズンである。インフルエンザの流行でこれが延期したり、中止になったりもしているようだ。さらに、11月になっても流行の波が押し寄せ、この時期、実施される文化祭もその実施が怪しくなった。まったく持って厄介なインフルエンザである。
オレの学校も、早期一斉下校や学級・学年閉鎖などが、何度となく続いた。新型のインフルエンザの感染力は驚異的である。オレの教師経験でも、幾度となくインフルエンザが流行し、学級閉鎖などを経験したが、今回の新型インフルエンザの感染スピードは並外れている。
例えばクラスでの広がり方を見てみよう。はじめは、それぞれのクラスで1〜2人が感染する。そのプロセスでは発熱する前に、菌を回りにばら撒いている。次に学校か自宅で発熱し、早退・欠席する。病院で検査して新型インフルエンザと確認される。その生徒はおよそ1週間休む。その間、不気味なほど変化のない時間が過ぎる。次に、インフルエンザを完治させて、生徒は復帰する。
それから、2日ほどたつと、いきなり頭痛や発熱、寒気を訴える生徒が保健室へやってくる。隣のクラスは何も起こらないのに、そのクラスの生徒だけ一気に発熱し、下校し始めるのだ。その数は6〜7人となる。それも、朝一番の者から昼食時あるいは午後からとばらばらと保健室にやってくるのだ。
次の日には、朝から欠席連絡の電話が鳴り止まない、10人を越えて欠席者が増える。すでに新型インフルエンザの診断が出た者もいる。学校はそのクラスの早期下校を実施する。その後、電話が1時間おきぐらいにかかってきて、ほぼ欠席した全員がインフルエンザであることが判明する。学校は学級閉鎖を決定し1週間の閉鎖となる。時には学年全部が閉鎖となったり、学校全体が閉鎖となる。
6月ごろは学校で1人でも新型インフルエンザが出たら、全校を休校にしていた。しかし、39度の熱が出るにせよ、2〜3日で収まる。リレンザやタミフルの処方で、早く回復する。それで対応がだんだん甘くなってきた。閉鎖するかどうかは各学校で決定されるので、秋ごろからはクラスで2〜3人出てもすぐには閉鎖しない。最近は6〜7人が、インフルエンザであると確認されてから、閉鎖するようだ。しかし、これも仕方がない。過敏に反応して早めに閉鎖しても、再開したときに第2派の流行がはじまってしまうこともあるのだ。テストなどの大事な行事をクリアしてから、閉鎖へと考えてしまう。
しかし、それはこの新型インフルエンザの症状が悪化して、重篤となったり、あるいは脳炎などを発症して後遺症を残したりした場合、学校の対応の責任が問われることになる。とはいえ、これほど連続して流行が繰り返されるたびに過敏に反応していると、学校の授業は成り立たなくなる。
この新型インフルエンザの本当の怖さがわかってきた。それは・・・
1、猛烈な感染力がある。
2、高熱が出るが、薬の処方により2〜3日で治癒する。また、体質によっては軽い症状ですむ者もいる。対応が次第に甘くなる。
3、他人との接触の仕方によって、クラス単位で、短期爆発的発症だったり、ぽつりぽつりと、ゆっくり感染したりとその感染の仕方が多様である。
4、学校などの子どもの集まる場所で感染力は倍化する。
5、以上のことから、どの程度の感染で、学級閉鎖に踏み切るかの判断が難しく、これを半日迷うと、感染が暴走することがある。
などだ。
体力のない者や既往症を持っているものが感染すると重篤の危険性があり、最悪の場合死亡に至る。まことに厄介な病気だ。通常、冬に流行する従来型インフルエンザよりも症状は一見軽く見えるところが曲者である。つい、甘く対応してしまうというか、慣れてしまう。それが第2派、3派と続いて流行する原因だろう。一番怖いのは、流行を何度も続ける間に、薬に耐性を持ったウイルスが生まれることだ。薬が効かないということになると、39度の熱が収まらず、身体に大きなダメージを受けることになる。しかも感染力は桁外れだ。ワクチン接種も始まったが副作用など問題も多い。
特に中学校の3年生はこれからの受験に向けて、大事な時期である。新型や従来のインフルエンザの両方に感染せぬよう厳重な注意が必要だ。一番いいのは、学校へ行かないことだがそうはいくまい。学校を最も住みやすい根城としたワル菌(悪ガキじゃないよ)。これが新型インフルエンザの正体だ。
オレは某中学校体育教師だ。冬休みに突入だな。3年生はおそらく、今だかつて経験したことのないおも〜い冬休みになろう。胸の辺りに何やら得体の知れぬもやもやが巣食う楽しめない冬休みだ。お笑い番組を見ても、映画を見ても、その時は楽しめても、エンドクレジットが流れ始めると「あーあ、マイペース(新研究かも)をもう一度見直さなくっちゃ」とか「受験校の過去問をやるぞ!」とか、冬休み明け1週間後の「学年末テストの勉強をせねば」(冬休み前に、学年末テストの範囲は出されている)などといった受検モードに自動的に切り替わるのだ。
この段階で、すでに学校では進路委員会が終了し、私立の「推薦をされる、されない」とか、私立一般受験の合否可能性などが担任から伝えられている。もう、やるっきゃないのである。
ところでこの時期では、受験(検)生は次のような状況に分類されよう。
1、私学の推薦を得た者。
2、私学一般受験で1〜3校を受けることになった者。ただしその中で
@合格可能性90%以上の滑り止めとなる押さえがひとつはある者。
A3校とも押さえがなく、50%程度かそれ以下の合格可能性ばかりで、もしかして全滅する可能性のある者。
B特攻隊。
3、専門・専修学校の推薦・一般が決まったもの。ただし、推薦は単願となり一般は私学と併用となる。
4、就職決定者
5、愛教大や名大付属高校などの国立を受けるもの。
6、行き先が不明・未決定のもの、あるいは少年院などの矯正施設に入所しているもの。行方をくらました負債者家族、外国籍の生徒で進路の決まらない者などだ。
1、に該当する生徒は生活面での引き締めが必要だ。触法行為(万引き、けんか、バイク窃盗、飲酒、タバコなど)が発生すると悪質な場合直ちに推薦はなくなる。推薦が決まった途端、気が緩み、遅刻、授業離脱や妨害、対教師暴言・暴力、学校施設破壊行為など起こした場合、イエローカードだ。きびしい指導がなされるが、イマダハンセイノイロナシと判断されると推薦はなくなる。同級生や下級生に示しがつかなくなるからな。
2のAは、教師の強い指導に従わず自分で押さえとなる学校を蹴ったのだから、自己責任の下、死に物狂いで受験準備を進めよう。しかし、本人が危ない橋を渡っているのだと言う自覚がないとかなり、ヤバイ。また、こういう学校を選ぶ生徒は、往々にして危機感がないのが多い。だから押さえをはずすのだ。失敗すれば、公立高校のランクを下げざるを得ないので覚悟しておこう。Bは記念受験と割り切り、全×の対策を練ること。教師に全面的に頼ることになるが、教師との良好な人間関係がないと、「どうぞ、好きなところを受けてください」と穏やかに対応される。しかし往々にして中学3年間の生活・学習態度にその原因があるのだから自分で何とかしよう。まあ、なんともならんがね。
3、専門学校が押さえとなる生徒は、そこに入学する覚悟をしておくこと。専門学校は学力よりも人物本位で見られる。身だしなみや言葉遣い、あいさつなどができない生徒はたとえ入学しても長続きしない。
4、この不景気の時代で、就職できたとすれば、まずは「おめでとう」と言いたい。しかし、高校や専門学校進学に比べると一番きびしくつらい生活が待っていると腹を括り覚悟して、仕事を継続することが必要だ。
5は、国立学校ではあるが、書類作成や面接、作文指導などはやく動かなければならないので、かなり忙しい。また、合格が決定すれば他の学校は受験不可であることを忘れずに。
5は厄介だが、学校での対応にも限界がある。行く末を案ずるのみだ。もう遅いかもしれないが、今後このような事態に2度とならないよう、自分の生きかたを考えておくことだ。親に原因がある子どもは、同情を禁じえない。しかし、なんともならない。外国籍の生徒については法律的にまったく見えてこない部分もあるので、教師サイドでは状況を追認するのみだ。行方不明、帰国、転居などいろいろで、また年齢もまちまちなので、学校として差別的な扱いには注意したい。ただし、本人がまじめである、と言うか普通に生活していることが大前提である。狼藉者、荒くれ者、ヤンキーは学校のフォローは無いと覚悟しよう。
3年生の12月から3月にかけては、自分の進路が、自己責任の下に決定されていく人生初の試練の場である。困難や悲観的状況に対して、逃げを打たず、正々堂々と立ち向かうべきだろう。まじめに一生懸命、生活・勉強してきた生徒はその覚悟ができている。まじめとは、進路の決定に対してこの覚悟を強固なものにするための「生きかた」なのだ。
オレは某中学校の体育教師だ。いまどきの保健の授業は、結構手間がかかる。1年は心身の成長発達について、2年は環境問題、3年は伝染病などの疾病、タバコ、酒、薬物、性感染症、エイズなどがメインとなる。
1年生の保健の中心はずばり、性教育である。かつては生理や射精、妊娠のメカニズムなどを教える性器教育であったが、現在は、男女の清く正しき関係の持ち方など性教育的な内容にも触れる。
この性関係の話になってくると、生徒は興味津津でいつになく集中して聞いている。「男女が性関係を持つと・・」などと話し始めると、ごくりと生唾を飲むなどの生徒の息遣いがひしひしと伝わってくる。とりわけ1年の女子合併クラスを受け持ったときは、教科書の内容に具体的な事例を盛り込んで性の話を淡々としていったのだが、「興奮し射精に至る」などのくだりでオレと目が合うと、頬を赤らめ、うつむくなどの恥じらい反応を見せた。なにやら微笑ましい思いを持ったものだ。男子合併クラスになると、ちょっと雰囲気も変わり、オレも悪戯心をだして、学年で一番まじめな生徒を当てて「性的に興奮するとは、どういう状態であるか説明せよ」などとやったことがあった。ところが「立っちゃうことでしょう」とストレートに返答されて1本取られた。
そういえばオレの時代では、保健の授業でこういうことは教えてもらわなかったなぁ。中学1年のとき、公園に落ちているエロ本を見て、興奮をするのであるが、どうして子供ができるのかという肝心のところを理解していなかった。しかし、程なく真実を知ることとなる。学年で一番勉強のできる秀才B君に学校帰りの道すがら、教えられたのであった。「おい谷川君、君がどうしてこの世に生まれたのかわかるか?」「いや、考えたこともない」「実はな、オレもこの理由を知ったとき、かなりのショックを受けたのだが、谷川君も真実を知っておいた方がよいだろう。まあ驚くなよ」「君の父上と母上がな、布団の中で、○○を△△にいれて・・・」「ひやー、僕知らなかったなあ、そんなことをしていたのか!!」「いや、今もたまにしている。子どもをつくるという目的ではなく」オレはカルチャーショックを受けた。B君は学年一の秀才、嘘やおふざけはない。しかし、持つべき者は友である。彼には勉強も教えてもらったが、大人の世界のあれこれも少なからず御教授いただいた。オレの保健の授業は下校時の空き駐車場であったわけだ。
そういえば「女の性根」についても、友達に教えられたことがある。中2のころオレは密かにS子に恋心を抱いていたのだが、そのS子が当時流行の「天地真理のポスターを100円で売ってあげる」と申し出たのだ。オレは、喜んでそのポスターを購入した。すると、学年一もてるイケメンN君が忠告してくれた。「谷川君、S子から天地真理のポスターを100円で買ったそうだな。君、やられたね」「どういうこと?」「あんなポスターいくらでも只で手に入るものなのだ。オレもたくさん持っている。欲しけりゃ、いくらでもやるよ。それより問題はS子だ。あいつは、君が自分に気があることを知っていて、金を巻き上げたわけさ。それだけじゃない、あいつは、こうやって男をおちょくることに快感を覚えている。他の女の子に「自分に気のある男はほいほい金を出す」と自慢していたぜ」「まあ、顔は美形だが、性格は意地悪で卑しい。せいぜい気をつけることだな」。学年一のイケメン男は「女の性根」を見通す力もあったのだ。彼にいわれてみて、S子を今度は虫眼鏡で覗くがごとくその行動や言動を観察してみると確かに性格は悪い。それがわかり始めると美人に見えた顔つきも何やらカマキリ顔に見えてくるから面白い。
S子はまたぞろ、オレのところにポスターを売り込みに来た。そこでオレは、イケメンの話をぶつけてみた。S子の顔が一瞬歪んだのをオレは見逃さなかった。どうやらS子は学年一のイケメンに気があったようだ。
こと左様に保健の授業では見えてこない男女間のふかぁ〜い関係を知ることができた。いやー持つべき者は友人であるな。今現在の保健の授業も、机上の空論に終わらぬためにも、よき友人とのコミュニケーションを持つべきだろう。
ところで3年生の保健の授業であるが、「性感染の予防」のところで「コンドームを装着するなどして、感染予防しましょう」と教科書に書いてある。3年の女子に向けてオレは「セックスをすることになったら必ず、コンドームを彼氏に装着させよ」と真顔で伝えた。その時の女子の反応は、ゆっくりと、うなずくものであった。
オレは某中学校の体育教師だ。3年生の2月、とりわけ下旬は、とてもやりにくい。教室を見てみれば、そこには5種類の生徒が存在する。
1、私立推薦合格者(専門学校推薦合格者も含む)。2、公立高校推薦合格者。3、私立一般を合格し公立一般を受検するもの。4、就職組。5、行き先の不明の者、などだ。
3、に関してはもう少し細かく分類される。3の1、私学に合格したが、滑り止めであって、そこに行くつもりはない。従って、絶対に公立に合格しなければならない決意を秘めている者。3の2、私学に合格して、まあ、そこへいっても構わないので、公立受検はチャレンジと見做し、自分の実力以上の学校を受検し合格すれば儲けものと考えている者。3の3、公立は本命が合格しそうな状態の者。3の4、公立2校のうち、一つは受かりそうだが、そこは本命ではなく、しかし経済的理由によりそこにいかざるを得ない者などである。
そんな中、進路先が決まった者は浮かれまくって、落ち着きがない。私立推薦の中には、私立一般ではたぶん合格しないが、推薦ゆえに合格した生徒もいて、その中には箍をはずす者もいる。
一方で、これからが本番勝負でキリキリした精神状態の生徒もいる。楽天的にのんびり構えているのもいる。すでにテストも終了し、自習が多くなっている毎日である。
こんな状態の教室を想像して欲しい。教師としてはたいへんやりにくい。合格した者の態度不良により、合格を取り消しにすることは基本的にできない。しかし、公立受検を控えている生徒は、教師に目で訴えかけている。「この極楽浮かれトンボたちを何とかしてくれ!!」
2月のこの時期に、教室環境が複雑になっているのは、愛知の高校受験(受検)制度のせいでもある。
今、40代以降の人ならばわかるだろうがかつての受検は単純であった。私立受験の単願か併願。公立は1回のみの一発勝負。これだけであった。従って、2月下旬は、私立単願合格で行き先の決まった生徒と公立受検の生徒しかいなかった。しかも圧倒的に公立受検の生徒が多数派であった。行き場のない生徒は専門学校が引き受けてくれた。
しかし、今はそれぞれの高校の思惑が交差して複雑な教室環境をつくっているのだ。
また、悪ガキが最後のあがきをする次期でもある。器物破壊、授業妨害、授業中の学校徘徊、対教師暴力、生徒いじめなどだ。外で悪さをしてくれれば、まだ他の生徒に迷惑がかからないが、学校内で悪さをするヤツは鬱陶しい。こういう輩は、この時期になぜか出席率がよくなる。いつもは5限めあたりの重役出勤だったのが、朝一番から、登校して悪さをする。
我々教師は、職員室のホワイトボードの隅っこに卒業までのカウントダウンを書いてその数字が減っていくのを楽しみにしている。
何とかならぬものだろうか?
例えば、合格した生徒は教室を別にして高校から出された宿題をさせる。きちんとやっていないと合格がチャラになる、とか。
悪ガキは登校を認めない(これは実際にやっている学校もある)、とか。
ボランティア活動を引き受けるところがあって、そこに通ってもらう、とか・・・
まあ、ムリだな。なんといっても義務教育であり。生徒は教育を受ける権利と義務がある。しかも、日本の未来を託す大事な子どもたちであるからな。かつて小泉政権時代に、教育も優秀な者を優先的に育てる政策があったようだが、それも子供の減少と不景気、政権交代によって大きく様変わりしてきた。いまや手厚い教育費の援助と公立高校授業料無料化(いつ実現かは未定)である。
しかし、幼稚園から大学まで日本の児童生徒というのは、マイナスの方向で様変わりしてきたとオレは思うのだがどうであろうか?かつても悪ガキもいたが、全体的にはまじめな生徒が多数派であって活気があったような気がする。今は、無気力、わがまま、その場限り、といった生徒批評が各方面から聞こえてくる。日本の教育は疲弊しているのか?2月は一年で一番短い月であるが3年生の教師にとっては最も長い月である。
オレは某体育教師だ。50歳を超えたころから腰と肩の調子が悪い。まず腰だが、仕事のし過ぎなどで痛めるのではない。むしろ、土日の長距離ドライブや庭の草抜きなどで腰痛になる。同じ姿勢での作業や急に立ち上がるなどの動作でぎっくり腰となる。そうなると、シップ、コルセットをはめての月曜出勤だ。そんな時にマットや跳び箱の授業だと師範ができん。まあ、今までもあまりやったことはないがな。
このとき、体育教師として「できんものはできん」運動音痴の生徒の気持ちがよくわかる。医者に診てもらったところ、腰辺りの骨と骨をつなぐ軟骨が潰れて骨同士がゴシゴシやっとるらしい。「治りません、物静かに動作をゆったりとして生活しましょう」体育教師のあり方を根本的に変えねばならん。
次に肩であるが、左肩がしびれ、その後左腕全体がビビッ〜とくる。これでは悪ガキにヘッドロックをかけれんではないか!
原因は、首の骨にある。頭から2番目の骨が左側にとび出ているのだ。それで神経を圧迫してしびれが定期的にやってくるのだ。実はこれは左足の古傷が根本原因である。忘れもしない25年前の大雪のとき、朝、教頭の命令により校門の雪かきをしておった。そこでつるりと転んで、左足の関節の皿を骨折したのだ。そのおかげで、体のバランスが悪くなり、慢性の肩甲骨痛になった。それが、くび、腕にまで及んだのだ。けがの本当の苦しみは老体になってからやってくる。まあ、職業病だな。
次に視力の衰えだ。いわゆる老眼である。最近、職員会議のレジュメが見えん。10.5ポイントでは、老眼鏡や虫眼鏡がいる。12ポイント以上にして欲しい。ただ遠視であるため、運動場の全体は見渡せる。80m先でチューインガムをかんでいる生徒の口の動きが見える。理由を述べドツくと、「よくみえるなぁ〜」と感心される。
最後はメタボだ。腹の脂肪がジャージのサイズアップを余儀なくさせる。運動会で飛び入り教師リレーチームなどに出ようものなら、3日は寝込むことになろう。だから、40代後半からこの手の参加はしていない。今でも誘われるが、腹の脂肪を見せて辞退する。
生徒の心身の健康と鍛錬に従事する体育教師が不健康では、お話にならんな。むかし、跳び箱が跳べなくなった体育教師が自殺したなどという事件があったが、今はむしろ、生徒へのセクハラの方が話題となる。男の50代は、精神的には性的倒錯に陥ることがあるらしい。それで2週間に一回ぐらいのペースで、50代教師の下着ドロ、盗撮、生徒との淫行などのニュースが流れる。実は教師に限らず、この年齢はアブナイらしい。
生徒も学校も教育制度もめまぐるしく変化してきた。今まで、それに何とか対応できたが、年をとると体がついていかなくなる。特に体育教師はつらい。真冬の4時間運動場での授業や真夏38度での水泳授業などかなり手を抜いても疲労が蓄積する。
それに教師自体も高齢化した。平均年齢は40代後半らしい。だから、50代になっても部活や生徒会、学年レク係などをしているのだ。教師の仕事を生きがいとしている人は、気にならないだろう。むしろ活躍できてうれしいのかもしれない。しかしオレはのんびりスローライフに生きたいのである。いや、言い換えよう。オレはもともとグータラなのである。老化が進めばグータラ度も進む。今から定年後のグータラ生活を夢見るというこの不景気な時代にあってけしからんことを考えておる。しかし年々、給料は劇的に下がるし、税金はオレ達年代にきびしい。定年のときに退職金がはたして出るのかも疑わしいのだ。年金も当てにできん。
こうなれば退職後は、田舎にでも移住して持久自足生活でもするか。しかし、体験者によると、それは「奴隷労働」にも匹敵する肉体労働であるらしい。肩痛・腰痛・メタボ・グータラのオレにはムリだな。しかし数年すればリタイアだ。オレはマッカーサー元帥の引退演説の有名なくだりが浮かんだ。
「・・起床ラッパが聞こえてくる・・兵舎で歌われていたあのバラードの一節が・・。誇り高く歌い上げていたあの一節。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
「・・第2ラジオ体操の響きが聞こえてくる。老体育教師は死なず、ただ消え去るのみ」